坂口仁一郎
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坂口仁一郎

坂口 仁一郎(さかぐち にいちろう、1859年2月4日安政6年1月2日[1] - 1923年大正12年)11月2日[2][3][4])は、日本の政治家衆議院議員憲政本党立憲国民党立憲同志会憲政会)、漢詩人、新潟新聞社長、新潟米穀株式取引所理事[1][5]。族籍は新潟県平民[1][5]。長男はラジオ新潟社長・坂口献吉、五男は作家坂口安吾。孫に写真家坂口綱男などがいる。漢詩人としては阪口五峰のペンネームを用いた。
生涯

越後国中蒲原郡阿賀浦村(現在の新潟県新潟市)大安寺で、父・得七と母・ユウの長男として生まれる。祖先は肥前唐津[要曖昧さ回避]にあり、江戸時代初めに加賀大聖寺越後長岡などを経て大安寺に住み着いた。当時得七は坂口家の本家とともに裕福な地主だった。仁一郎は13歳で聖籠村諏訪山の大野耻堂の門人となり、漢学、詩作を学んだ。

1870年(明治3年)、家督を相続[1]。15歳で大安寺に新居を構え、玉井波磨子を妻に迎える。1874年(明治7年)に父の投機失敗などがあり、仁一郎は東京に出て、耻堂の子の大野楳花の家に身を寄せて、中村敬宇同人社に通い洋学を学ぼうとしたが、2年ほどで父に連れ戻された。その後新潟へ出て、地租改正にあたって地券を定めるために、新潟米商会所(後に新潟米穀取引所)の創設者本間新作を手伝った。

1879年(明治12年)に本間により米商会所(新潟米穀株式取引所)で頭取代理、肝煎となり、45年間勤め理事長になった[6]1884年(明治17年)より改進党系の新潟県会議員として、17年間在職し、議長も経験した。1887年(明治20年)からは新潟新聞市島謙吉、小崎藍川を助けるようになり、1891年(明治24年)に市島が去ったため小崎が主筆、仁一郎が社長となる。またこの頃から「越人詩話」(後に七松居詩話、北越詩話)を新聞に掲載を始める。1889年(明治22年)には三子をもうけた妻・波磨子が亡くなり、1891年(明治24年)に後妻に吉田朝子を迎えた。

1902年(明治35年)、衆議院議員に当選。8期務め、1905年(明治38年)には満鮮戦地視察に赴いている。憲政会党務委員長、県支部長なども務めた。東京では日本橋元銀町樋口屋、後に戸塚に居住。1920年大正9年)に発病、胃癌と診断されたが腹腔内腫瘍だった。この頃から蘇庵、更生同人と号する。1922年(大正11年)に新潟で中学を再落第・放校のおそれのあった安吾を戸塚に呼び寄せ、豊山中学校に編入させた。1923年(大正12年)11月に在職中のまま病の悪化により、細胞肉腫、後腹膜腫瘍で死去。享年64。大安寺の坂口家墓所に葬られた。

資料に坂口献吉『五峰余影』(1929年、増補1954年)がある。
詩人として

1889年森春濤門下の山中耕雲が新潟に訪れ、勧められて『新文詩』に送り掲載された。

送友人遊新潟 五峰樵史
  簾影灯光映緑潮
  知名到日駐蘭橈
  為吾応訪珠娘宅
  住在紅欄第二橋

晩年の作品は国史を論じる詠史詩が多い。

1883年に王治本『舟江雑詩』(光緒9年)の翻刻。1918年に新潟新聞に掲載した『北越詩話』を刊行、越後出身者など900人3500首の詩文が収められている。

印の収集も趣味で、高芙蓉刻の鶏血石の印を市島謙吉から譲り受ける時に、七言三十四句の大作「鶏血石歌贈市島春城」を贈っている。このために仁一郎と市島は相互に一席を設けて、仁一郎はその席上でこの「鶏血石歌」を大幅に書き、招かれていた寺崎広業が画を描き、浜村蔵六が筆を添えた。これは新潟県立図書館に所蔵されている。

三周忌の1925年(大正14年)に館森袖海、長男・献吉が編纂した『五峰遺稿』(全三冊)が刊行された。
家族・親族
坂口家
新潟県新潟市西大畑通)[1]


祖父・得太郎
享和3年(1803年)生 - 天保10年(1839年)没[7]

祖母・ミタ
文化9年(1812年)生 - 1875年明治8年)没[7]

父・得七(新潟平民)[1]


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