坂井三郎
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この項目では、大日本帝国海軍搭乗員について記述しています。大阪市会議長の同名の人物については「坂井三郎 (政治家)」をご覧ください。

団体職員の「酒井三郎」あるいは「酒井三郎 (歴史学者)」とは別人です。

坂井 三郎
1939年、漢口飛行場で愛機である96式艦上戦闘機の日の丸の前に立つ坂井三郎。
渾名大空のサムライ(著書名より)
生誕1916年8月26日
佐賀県佐賀郡西与賀村
死没2000年9月22日(2000-09-22)(84歳)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1933年 - 1945年
最終階級海軍中尉
除隊後印刷会社経営
墓所愛川町の相模メモリアルパーク
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坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年9月22日)は、日本の海軍軍人。

ポツダム進級により最終階級は海軍中尉太平洋戦争におけるエース・パイロット

著書『大空のサムライ』で有名。撃墜数は自称64機だが、後述のように公認撃墜数は28機である。
経歴

佐賀県佐賀郡西与賀村大字厘外1523番地(現在の佐賀市西与賀町大字厘外)で農家の三男だった父・坂井晴市と母ヒデの次男として生まれる。名前は祖父の勝三郎に由来している。坂井が5歳のときに一家は祖父の家から夜逃げ同然で出奔して貧しい生活を送った。父は小さな精米所に勤めたが、坂井が小学校6年生の1928年(昭和3年)秋、36歳で病没。残された母と6人の子供の生活は困窮した。見るに見かねた伯父が兄弟を中学に入れてやろうとして、坂井は東京に引き取られる形で上京した。坂井は新宿の府立六中を受験したが落ちて青山学院中等部に進学した。しかし、成績不振で落第して退学処分となった[1][2]

その後は実家に帰され約2年間、農作業に従事した。この頃から自身の将来について真剣に考えるようになった。スピードへの憧れがあり、騎手になろうとしたが本家の反対で挫折。同じ西与賀村出身で佐世保航空隊の平山五郎海軍大尉操縦の飛行艇が故郷で低空を旋回するのを、農作業をしつつ仰ぎながら見た速い物としての飛行機に憧れた。「海軍少年航空兵」募集のポスターを見て二回受験したが、不合格になった[3]

飛行機のある海軍に入れば、近くで見られるだろうし、触るぐらいはできるだろうという思いから、海軍の志願兵に受験し合格、周囲は反対したが1933年(昭和8年)5月1日、四等水兵として佐世保海兵団へ入団する。1933年10月1日、戦艦霧島に配属され、15センチ副砲の砲手となる。1935年(昭和10年)5月11日、横須賀の海軍砲術学校に入校。翌1936年(昭和11年)、同校を200人中2番の成績で卒業し、5月14日に戦艦榛名に配属。大艦巨砲主義全盛の当時、花形とされた戦艦の主砲の二番砲塔の砲手に任せられるが、演習で榛名の艦載機の射出を見て海軍入隊の目標であった搭乗員への志願を上官の搭乗員に打ち明けると、「指導してやるが、学科試験に合格しなければ道は開けない」と言われる。受験を上官に打ち明けたところ、主砲の砲手を外され、艦底で装薬や砲弾を扱う弾庫員に回される。それでもめげずに年齢的に最後となる操縦練習生を受験して合格。

1937年(昭和12年)3月10日、霞ヶ浦航空隊に入隊、4月1日初飛行。練習生の中では、操縦が上手いほうではなく単独飛行が許されたのは卒業も近い最後だった[4]。卒業後の延長教育の射撃も上手くはなかった[5]。首席を目指して勉強に励んだ結果、希望どおり艦上戦闘機操縦者として選ばれ、同年11月30日に第38期操縦練習生を首席で卒業。卒業式では昭和天皇名代の伏見宮博恭王より、恩賜の銀時計を拝受し、海軍戦闘機搭乗員としての道を歩み始める。佐伯航空隊付、戦闘機操縦者としての延長教育を受ける。この佐伯航空隊時代に、操練の三期先輩に当たる原田要が空戦訓練の相手に組まれ、切磋琢磨した[6]1938年(昭和13年)4月9日、大村航空隊に配属。5月11日、三等航空兵曹に昇進。高雄航空隊付。
支那事変九六式艦上戦闘機に乗った坂井(1939年)坂井三郎と爆撃機(1942年以前)

1938年9月11日、第十二航空隊に配属。勤務地の中国大陸九江に進出。

1938年(昭和13年)10月5日、漢口空襲に参加。これが坂井の初出撃であり、指揮官相生高秀大尉の三番機として九六式艦上戦闘機に搭乗した。坂井は中華民国国軍I-16戦闘機1機を撃墜。1939年(昭和14年)5月1日、二等航空兵曹に昇進。同月、九江基地からの南昌基地攻撃に参加。6月、占領した南昌基地に進出。10月3日、SB(エスベー)爆撃機12機編隊が漢口基地を空襲。坂井は迎撃に上がり、単機で宜昌上空8千メートルまで追尾して、1機を撃墜。11月、上海基地に移動。1940年(昭和15年)5月、運城基地に進出、同基地上空哨戒等に従事。

1940年(昭和15年)6月、大村航空隊配属。内地に帰還する。8月、横須賀航空隊で行われた新機種の取り扱い講習会で、登場したばかりの零式艦上戦闘機(零戦)を初めて見る。1940年10月17日、高雄海軍航空隊に配属。搭乗機が九六戦から零戦に変更されたため、坂井は名古屋で零戦を受け取って、鹿屋基地経由で台湾の高雄空まで空輸する形で、24日に高雄基地に着任した。零戦について、思い通りに動いてくれる格闘性能と燃料切れを気にせず空中戦に集中できる長大な航続力(≒滞空時間)から高く評価している。そのため、翼幅を削り速度が上昇し、他性能が低下した零戦三二型が導入された際には、操縦性、格闘戦の上から改悪であると意見している[7]

1941年(昭和16年)春、坂井は高雄空の零戦18機のうちの1機として、海南島三亜基地に前進。更に坂井を含めた12機は、陸軍の北部仏印進駐に呼応する形で、ハノイ飛行場に進出する。

1941年(昭和16年)4月10日、第12航空隊配属。12空の横山保大尉の希望で中国大陸に再進出。漢口基地から華中における作戦に従事。5月3日、重慶攻撃に出撃。6月1日、一等飛行兵曹に昇進。7月9日、梁山攻撃に参加。27日、成都攻撃に参加。8月11日、零戦16機、一式陸上攻撃機7機による成都黎明空襲に参加。攻撃に参加する戦闘機はあらかじめ前日に漢口基地から宜昌飛行場へ移動し、同飛行場を夜間離陸し、漢口出撃の一式陸攻に合流した。中華民国国軍のI-15戦闘機1機を撃墜。坂井にとって零戦での初撃墜となる。8月21日、再度の成都攻撃で、I-16戦闘機1機を撃墜。ソ連からの援蒋ルート(北方ルート)を遮断すべく派遣された零戦18機の1機として、運城基地に進出。8月25日、零戦7機のうちの1機として蘭州基地攻撃に出撃。上空を制圧。その数日後、更に奥地の西寧への零戦12機での攻撃に参加。8月31日、岷山山脈の谷間という地形的に上空からの攻撃が難しい松潘基地への攻撃に指揮官新郷英城大尉以下零戦4機で参加。同基地上空に達しつつも、天候不良にて引き返す。坂井は支那事変では実戦を数えるほどしかやらなかったと回想している[8]
台南空
比島・蘭印方面

1941年(昭和16年)10月、台湾台南基地に新設された台南航空隊(以下、台南空と略)に配属。坂井は台南空で先任下士官兵搭乗員であった。


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