坂下
町丁
城北交通公園
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度47分02秒 東経139度40分59秒 / 北緯35.783822度 東経139.683042度 / 35.783822; 139.683042
国 日本
都道府県 東京
特別区 板橋区
地域志村地域
人口情報(2024年(令和6年)3月31日現在[1])
人口19,914 人
世帯数10,846 世帯
面積([2])
0.949360846 km²
人口密度20976.22 人/km²
郵便番号174-0043[3]
市外局番03(東京MA)[4]
ナンバープレート板橋
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坂下(さかした)は、東京都板橋区の町名[5][6]。現行行政地名は坂下一丁目から三丁目。全域で住居表示が実施されている。 板橋区の北部に位置する。北端で新河岸川に接する。北で新河岸川を隔てて舟渡、西で蓮根、南西で相生町、南で志村、東で東坂下と隣接する。町域の東端を国道17号(中山道)が通じている。南北に長い町域を持ち、南から順に一丁目、志村坂下通りを境界として二丁目、高島通りを境界として三丁目となっている。 江戸時代から明治時代にかけては現在の東坂下とともに、清水坂から戸田の渡しに至る街道筋の小集落が点在する地域であった。1923年の関東大震災後より化学・薬品系の工場が相次いで創設され、太平洋戦争中はほとんどが軍需工場となった。現在でも北部の三丁目地域には化学系の企業・工場が多く立地している。コビト撤退後はマンションの建設が進められている。南部の一丁目・二丁目地域は主に住宅地で、学校・公園・公営住宅も多く見られる。 荒川低地の沖積層からなり、全域がほぼ平坦である。 住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、坂下1-30-21の地点で40万7000円/m2、坂下3-25-2の地点で39万2000円/m2となっている[7]。 廃藩置県実施前は武蔵国豊島郡蓮沼村(後に分村により本蓮沼村(もとはすぬまむら))および根葉村(ねっぱむら)の一部[6]。一帯は中山道の清水坂から戸田の渡しに至る街道筋に小集落が点在していたほかは、志村の原・下の原と呼ばれる葦や萱の生い茂る低湿地の原野だった[6]。志村の原は蓮沼村と根葉村の入会地であり、将軍の御鷹場
地理
地形
河川
新河岸川
出井川(暗渠)
前谷津川(暗渠)
蓮根川(暗渠)
地価
歴史
沿革
1602年(慶長7年):徳川家康の命により、中山道が整備される。
17世紀前半ごろ:荒川洪水の被害を受けた氷川神社および南蔵院が、現在の坂下二丁目地域から高台(現在の蓮沼町)に移転する。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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