坂上苅田麻呂
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 凡例坂上 苅田麻呂
坂上苅田麻呂(菊池容斎『前賢故実』)
時代奈良時代
生誕神亀5年(728年[1]
死没延暦5年1月7日786年2月14日
官位従三位左京大夫
主君称徳天皇光仁天皇桓武天皇
氏族坂上忌寸→大忌寸→大宿禰
父母父:坂上犬養
兄弟苅田麻呂、山野、越足
妻畝火浄永娘
子石津麻呂、広人、田村麻呂鷹養
真弓、鷹主、雄弓、又子、登子
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弓の名手である坂上苅田麻呂が藤原仲麻呂の乱で訓儒麻呂を射ようとする場面を描いた月岡芳年の『大日本名将鑑 坂上苅田麿訓儒麿』

坂上 苅田麻呂(さかのうえ の かりたまろ)は、奈良時代公卿・武人。忌寸のち大忌寸、大宿禰。大和守坂上犬養の子。官位従三位左京大夫勲等は勲二等。藤原仲麻呂の乱の鎮圧などで功を挙げ、坂上氏の地位を上昇させた。桓武天皇の下で征夷大将軍として活躍した坂上田村麻呂の父。
経歴

坂上氏は、代々弓馬の道を世職とし馳射(走る馬からの弓を射ること)を得意とする武門の一族として、数朝にわたり宮廷に宿営してこれを守護した。

天平宝字元年(757年)の橘奈良麻呂の乱において、反乱実行時に敵方に加勢するのを防ぐことを目的に、首謀者の一人である賀茂角足が事前に武勇に優れた人を集めて酒宴を開いた際、苅田麻呂も招待者の一人として名が挙げられている[2]。天平宝字年中に授刀衛少尉に任官。

天平宝字8年(764年藤原仲麻呂の乱が発生する。太師(太政大臣)・藤原仲麻呂(恵美押勝)が謀反との連絡を受けた孝謙上皇は、仲麻呂に擁立されていた淳仁天皇の中宮院(御所)に少納言山村王を遣わし、皇権の発動に必要な玉璽駅鈴を回収させた。しかし、仲麻呂の命を受けた訓儒麻呂に玉璽と駅鈴を奪い返されたことから、勅命を受けた坂上苅田麻呂は授刀将曹・牡鹿嶋足と共に訓儒麻呂を襲い射殺した[3]。この功により苅田麻呂は即日正六位上から従四位下と5階級昇叙の上、大忌寸の姓を賜与され、同年中に中衛少将甲斐守に任ぜられた。さらに、翌天平神護元年(765年)正月には勳二等の叙勲を受けた。神護景雲2年(768年)従四位上に叙せられる。

宝亀元年(770年称徳天皇崩御光仁天皇が即位すると、道鏡の姦計を告げて、その排斥の功績により、正四位下陸奥鎮守将軍に叙任される。光仁朝では中衛中将を務める傍ら、安芸守丹波守と地方官も兼ねた。なお、宝亀3年(772年)には大和国高市郡郡司職に関して、代々郡司職にあった檜前氏(檜前忌寸)[4]ではなく、ここ数代は別の氏(蔵垣忌寸・蚊帳忌寸・文山口忌寸)[4]が郡司職に任ぜられていることを上奏し、今後は檜前氏を郡司職に任じる旨の勅を得ている[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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