坂上田村麻呂
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伝説上の人物の「坂上田村丸」とは別人です。

 凡例坂上 田村麻呂
坂上田村麻呂(菊池容斎前賢故実』より)
時代奈良時代末 - 平安時代初期
生誕天平宝字2年(758年
死没弘仁2年5月23日ユリウス暦811年6月17日先発グレゴリオ暦811年6月21日[1]
別名坂上田村麿
坂上田村丸
大将軍
田村将軍
坂将軍[原 1]
毘沙門の化身[原 2]
北天の化現[原 3]
諡号常閑寺殿一品法観清議大居士
神号正一位田村大明神[2]
田村大神[3]
坂上田村麻呂公[4]
坂上田村麿将軍[5]
墓所 京都府京都市山科区西野山岩ヶ谷町西野山古墓
 島根県邑智郡邑南町日貫の宝光寺墓所
官位陸奥出羽按察使陸奥守正三位大納言右近衛大将侍従兵部卿参議鎮守府将軍征夷大将軍従二位
主君光仁天皇桓武天皇平城天皇
嵯峨天皇
氏族坂上忌寸→坂上大忌寸→坂上大宿禰
父母父:坂上苅田麻呂、母:不明
兄弟石津麻呂、広人、田村麻呂、鷹主、直弓、鷹養、継野、雄弓、又子、登子
高子(三善清継の娘)
大野広野浄野正野広雄、高道、春子
下記参照
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坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代公卿武官。名は田村麿とも書く。

忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫坂上苅田麻呂

官位大納言正三位右近衛大将兵部卿勲二等。贈従二位

4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めて征夷に功績を残した。

薬子の変では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後は嵯峨天皇の勅命により平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて神将や武神軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、後世に多くの田村語り並びに坂上田村麻呂伝説が創出された。

坂家宝剣では坂家。
生涯.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに田村麻呂伝の原文があります。

※日付は和暦による旧暦西暦表記の部分はユリウス暦とする。
出生から征夷大将軍まで坂上田村麻呂(月岡芳年画)
幼少期

天平宝字2年(758年)、坂上苅田麻呂の次男[原 4]、または三男[原 5]として誕生[6]。生年は坂上田村麻呂の薨伝に記録された没年からの逆算[7]。苅田麻呂は31歳、生まれた場所についてはあきらかにされていない(出生節も参照)[6]

母について、高橋崇は一切不明としている[6]延暦12年2月3日793年3月19日)に坂上田村麻呂の兄弟である坂上広人が雲飛浄永(畝火清永)とともに高津内親王の外戚として従五位下に昇授されている[8]。外戚とは高津内親王の母である坂上全子を通しての親族の意味で、全子の母の父か兄弟となるため、全子の母は畝火宿禰であり、浄永は母方の伯父か祖父、おそらく祖父(苅田麻呂の妻)に該当するものと推量される[8]角田文衞は広人、坂上田村麻呂、全子の三人が同母であったならば延暦12年2月3日の宴で坂上田村麻呂が昇授されなかったのは、前年の延暦11年3月14日792年4月10日)に兄の広人を越えて従五位上に叙されていたからであろうとし、坂上田村麻呂の母が畝火宿禰某女であったことは確証できないが、俄然性に富んだ推測であると言えようとしている[8]

田村麻呂の生まれた「坂上忌寸」は、後漢霊帝の曽孫阿智王を祖とする渡来系氏族の東漢氏と同族を称し、代々弓馬やの道を世職として馳射(走るからのを射ること)などの武芸を得意とする家系として、数朝に渡り宮廷に宿衛して守護したことから武門の誉れ高く天皇の信頼も厚い家柄であった[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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