坂の上の雲
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この項目では、司馬遼太郎の小説について説明しています。本作を原作としたテレビドラマについては「坂の上の雲 (テレビドラマ)」をご覧ください。
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(明治40年)

『坂の上の雲』(さかのうえのくも)は、司馬遼太郎歴史小説明治維新を成功させて近代国家として歩み出し、日露戦争勝利に至るまでの勃興期の明治日本を描く。

産経新聞』夕刊に、1968年昭和43年)4月22日から1972年(昭和47年)8月4日まで1296回にわたり連載された[1]
概要

司馬の代表作の一つとして広く知られ、長編作品としては初めての近代物である。維新を経て新国家に生まれ変わった日本が、欧米列強にさかんに学びながら近代国家としての体制を整えてゆき、日清戦争など幾多の困難を乗り越えて、ついには日露戦争においてロシア帝国を破るまでを扱う。旧伊予国愛媛県松山出身で、日本陸軍における騎兵部隊の創設者である秋山好古、その実弟で海軍における海戦戦術の創案者である秋山真之、真之の親友で明治の文学史に大きな足跡を残した俳人正岡子規の3人を主人公に、彼らの人生を辿りながら物語が進行する。

司馬は本作において、明治維新から日露戦争までの三十余年を「これほど楽天的な時代はない」と評している[2]。近代化によって日本史上初めて国民国家が成立し、「庶民が国家というものにはじめて参加しえた集団的感動の時代」[3]の中、秋山兄弟や子規に代表される若者達は新興国家の成長期に青春時代を送り、「個人の栄達が国家の利益と合致する昂揚の時代」[4]に自らが国家を担う気概を持ち、その意識を疑うこともなく政治・軍事・学問など各々の専門分野において邁進したと述べている。タイトルの『坂の上の雲』とは坂の上の天に輝く一朶の雲を目指して一心に歩むが如き当時の時代的昂揚感を表したもので[5]、日露戦争とは官から民の端々までがそういった「国家が至上の正義でありロマンティシズムの源泉であった時代」[6]の情熱の下に一体となって遂行された国民戦争であり、「国家の重さに対する無邪気な随従心をもった時代におこなわれ、その随従心の上にのみ成立した」[7]としている。また、本作の舞台となる日清・日露戦争期は戦争が多分に愛国的感情の発露として考えられており、帝国主義が悪であるという国際常識が無く、そうした価値観が後世とはまったく異なっていたことに留意するよう繰り返し著している[8]

司馬は、極東での領土的野心を際限もなく膨張させ、日清戦争で日本がから割譲した遼東半島を強引に手放させた後に我が物とし、義和団事件後に満州を占領し、ついには朝鮮半島にまで手を伸ばそうとした当時のロシアの行動を「弁護すべきところがまったくない」と断罪し[9]、日露戦争開戦に踏み切った日本の立場を「追いつめられた者が、生きる力のぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であったこともまぎれもない」と擁護している[10]。弱小国の日本が陸海軍力ともに世界最高水準を誇った大国ロシアに勝利できた理由については、既述の通り一国が国民国家として固く結束しこの戦いに国の存亡がかかっていると強い切迫感を抱いていたこと[11]、経済を限界まで切り詰めてほとんど飲まず食わずといった様相で艦隊を整えて海軍力において奇蹟的な飛躍を成し遂げたこと(ただし陸軍については近代戦についての認識が甘く、砲弾の準備など必要な備えを怠ったことを批判している[12])、指導層が後の太平洋戦争期と異なりいたずらに精神主義に陥らず合理主義に徹して戦争を遂行したこと[13]などを挙げている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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