地租改正
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年8月)

地租改正(ちそかいせい)は、1873年明治6年)に明治政府が行った租税制度改革である。この改革により、日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立したことから、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。
旧貢租・田租について

地租の由来は、大和政権における、収穫された稲を神にささげる慣行である「たちから」にさかのぼる。大化の改新により成立した律令国家では、「たちから」は、に倣って採用した租税制度である「租庸調」のうちの「租」へと再編された。ここでいう租とは、田畑(口分田)の収益を課税物件とした租税である。明治時代以前には田租(たそ)・貢租(こうそ)などと呼ばれていた。

豊臣秀吉の行った太閤検地により、土地の生産力を石高玄米の生産量)であらわし、その石高に応じて年貢を課すこととされた。また、検地帳に土地の直接耕作者を登録し、その者を租税負担の責任者とした。

地租は収穫量を今日でいう課税標準とし、直接に耕作者である百姓からその生産物をもって徴収された(物納)。なお、この納入は村請により村単位で一括して行われたと言われている。
地租改正の検討

明治初期から大蔵省民部省では、全ての土地に賦課して一定の額を金納させる新しい税制である地租の導入が検討されていた。

明治2年2月(1869年3月)陸奥宗光が、租税制度改革の建白書を中央に提出し、土地等級制の確立、税制の統一、地租金納を主張し、「古来検地ノ通弊ヲ改正」すべしとした。また、神田孝平も、1870年(明治3年)に「田租改革建議」を提出して各藩ごとの税の不均衡を正して公正な税制にするための貢租改革が提案されていた。だが、土地の賦課の是非は大名などの領主の権限と考えられていたこと、従来の検地に代わる大規模な測量の必要性があることから、政府内でも賛否両論があってまとまらなかった。

しかし、明治4年(1871年)に廃藩置県が行われると、日本からは領主が一掃される形となり、反対論の主たる理由が失われた。同年9月「地所売買放禁分一収税施設之儀正院伺」が大蔵省によって作成され、田畑永代売買禁止令の廃止とともに地租改正の実施が明治政府の方針として正式に決定されその準備が急がれたのである。

明治5年4月(1872年5月)陸奥宗光は「田租改革建議」を太政官に上申した[1]。明治5年6月18日(1872年7月23日)、陸奥宗光は大蔵大輔井上馨によって、神奈川県令から大蔵省租税頭に抜擢され、権頭松方正義とともに、地租改正法案の策定にあたることになった。1873年(明治6年)、大蔵省地方官会同で陸奥は租税頭に就任した。
経過

地租改正法
地租改正条例
地租改正規則

日本の法令
法令番号明治6年太政官布告第272号
種類租税法
効力廃止
公布1873年(明治6年)7月28日
所管大蔵省
主な内容土地所有権の公認、地租の原則金納
条文リンク条文
テンプレートを表示

1873年明治6年)7月28日に地租改正法(上諭と地代の3%を地租とする旨を記載した1ヶ条で構成)[2]と具体的な規定を定めた地租改正条例などから成る太政官布告第272号[1]が制定され、明治政府は翌年1874年明治7年)から地租改正に着手した。

政府は当初、検地が農民からの反発を受けることを懸念し、農民からの自己申告主義を採った。すなわち、農民自らが地押丈量を行い、面積・収量を算出し、地方庁は地方官心得書の検査例に基づいて点検し、これを経て地方庁が地券(改正地券)を発行する形を取った。しかしこの方法では、全国一律公平の租税を徴収する目的は達しがたく、また、1874年(明治7年)の改租結果から、目標の租税額が確保できそうにないことが明らかとなった。また、政府高官間の政争の産物である「大蔵省分割問題」も影を落としていた(内務省設置による測量機構と税額算定機構の分離)。

このため政府は、1875年明治8年)に内務省および大蔵省の両省間に地租改正事務局を設置し、これを中心として改租を強力に進めるよう方針転換した(明治8年太政官達第38号)[2]。この中で、府県庁は地租改正事務局があらかじめ見当をつけた平均反収を絶対的な査定条件とし、申告額がこれに達しない場合は、農民が自らの労力と費用をかけて算定した地価を否定し強圧的に変更させたことから、伊勢暴動をはじめとした大規模な暴動が各地で頻発した(地租改正反対一揆)。これを受けて政府は、1877年明治10年)1月に、地租を100分の3から100分の2.5に減額することを決定した。

その後政府の強硬姿勢は、1878年明治11年)頃まで続いたが、税収の見込みがつくようになると徐々に緩和されていき、1880年明治13年)に耕地宅地の改正作業が完了した。この地租改正は約7年にわたる大事業であった。
旧貢租と新地租の違い

前述の通り、江戸時代までの貢租は米による物納制度であり、あくまで生産者が納税義務者であった。また、その制度は全国で統一したものではなく、地域毎に違いがあった。このような制度を、地租改正により、土地の価値に見合った金銭を所有者に納めさせる全国統一の課税制度に改めたのである。

新地租の要点としては以下の点が挙げられる。

収穫量の代わりに、収穫力に応じて決められた地価を課税標準とした。

村単位とする賦課体系を廃して、個別の土地単位で賦課を行うこととした。

従前は物納であったものを、金納とした。

税率を地価に対する一定率(3%:「旧来ノ歳入ヲ減ゼザルヲ目的」として算定)とした。

耕作者ではなく、地券の発行により確認された土地所有者(地主)を納税義務者とした。ただし、江戸時代も、年貢を納めていた者は、本百姓・地主であり、水呑百姓・小作人ではなかった。したがって、地租改正によって、納税義務者が、耕作者(水呑百姓・小作人も含む。)から、土地所有者(本百姓・地主)に変更されたわけではない[3]

制度を全国統一のものとした。

地租改正の影響
安定した税収の確保と生産性の向上

税率を地価に対する一定率とすることにより、従前のように農作物の豊凶により税収が変動することなく、政府は安定した収入を確保することが出来るようになった。具体的には、農作物の価格変動リスクを、政府から農民へ転嫁したものといえる。しかも、「旧来の歳入を減じない」という方針によって3%という高額な税率が算定されたのである(なお、地租改正の推進派であった木戸孝允はこの高税率を聞くと、農民を幕藩体制よりも酷い状況に追い込むものだとして最後まで反対している)。

これは結果的には大多数の農民の負担を高めることにつながり、また土地の所有者がおらず納税が困難な入会地が事実上、政府に没収されたことなどから伊勢暴動、真壁暴動など一揆地租改正反対一揆)が頻発し、自由民権運動へ影響を与えた。このため、士族反乱と農民一揆の結合を恐れた大久保利通の意見で、前述の通り、1877年明治10年)に税率が2.5%に引き下げられた。これにより、江戸時代に比べ平均2割程度の減税となった。

江戸時代であれば収穫高に応じて年貢を納めていたので、仮に収穫が上がるとその分年貢も増えていた。しかし、地租の場合は納める税金は一定であるため、収穫を増やせば、その分は自分の取り分となった。そのため勤労意欲が湧くことになり生産量が増加した。

また、地租改正では、農民は自分で作る農作物を決められるようになった。従来は幕府や藩が決めた農作物しか作れないのが原則だったが、地租改正以降はその縛りが無くなった。農民は儲かりそうな作物、実入りが良さそうな作物を自由に選択することができるようになった。
土地の私的所有の開始による人材の流動化と職業選択の自由

地券の発行により、個人に対する土地の私的所有が認められることとなった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:32 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef