地神塔(じじんとう)は、地神信仰に基づいて地神講あるいは社日講によって造立された石塔であり、社日塔(しゃにちとう)・地神碑(じしんひ)ともいう。東日本では神奈川県に、西日本では岡山県と香川県に多く分布する。その他の県と北海道にも存在するが、地神講・社日講が広く分布しているのに対して地神塔の分布は限定的である。「地神」や「堅牢地神」などと刻まれた文字塔と、地神像または地天像の刻まれた刻像塔がある。元禄年間に造立が始まり、文化文政期(1804年-1830年)に広まって明治時代までは多く造立されたが、大正以降は少なくなった[2]。
五角柱や六角柱に「埴安媛命 倉稲魂命 大己貴命 天照大神 少彦名命」の五神名を刻む塔があり[2]、五神名地神塔[3]、五角柱地神碑[4]、五角柱=五神号型[5]などと呼ばれる。陰陽道系統の「土公神」や、神奈川県に見られる「天社神」や「后土神」と刻まれた塔も地神塔に含められる[2]。
佐賀県には角柱や自然石に「中央」「中央社」「中央尊」などと刻んだ中央塔(中央尊供養塔)が分布している。俗に「中央様」「チュウオウサン」などと呼ばれ、地神塔の一種とされる[6][2][7]。 大地の神としての地神に対する素朴な信仰は太古からあり、時代を経て、道教や仏教の影響により変質したと考えられている[8]。 西日本でジノカミ(地の神)やジヌシサマ(地主様)、中部地方から関東にかけてジガミ(地神)と呼ばれる神は、祖霊的な性格と土地神的な性格を持っており、屋敷神として宅地内に祀られる[9]。 関東の地神講で祀る地神は作神(農耕神)の性格を持ち、春と秋の社日に祀られた[9]。社日とは春分・秋分に最も近い戊(つちのえ)の日であり、春は五穀豊穣を祈願し、秋は収穫に感謝する[10]。作神が春の社日に来て秋の社日に帰るという伝承もある。古代中国に由来する観念が日本に伝わり、農耕神と習合し、さらに地神信仰と習合した[11]。 仏教において地神とは地天のことであり、十二天の一つとして梵天に対比される。堅牢地神と同一視され、その像容は盛花器を棒持する二臂像である。例外的に四臂像もある[8][12]。 徳島藩では、五神名地神塔を祀る信仰が藩の主導で広まった[5]。徳島城下にある富田八幡宮の祠官・早雲古宝が1789年(寛政元年)に藩主蜂須賀治昭に進言したのが始まりとされ、各村浦では五角柱の地神塔を奉斎し、庄屋が斎主となって春秋の二回、五穀豊穣を祈願した[13]。塔の造立と祭儀は大江匡弼の『春秋社日?儀
地神信仰
『仏像図彙』十二天の地天
『仏像図彙』諸天部の堅牢地神
『春秋社日?儀』の「本朝社之略図」に描かれた地神塔
『春秋社日?儀』の「本朝社祭の式」に描かれた社日祭祀
中央塔(中央尊供養塔)を祀る佐賀の中央尊信仰は、天台宗の玄清法流の盲僧によって広められた。地神陀羅尼王子経に依拠し、大地の中央にある荒神が四季の土用を司るという思想に基づくとされている。中央塔は本来は屋敷神として北東(艮)隅または北西(乾)隅に祀られたものであり[6][2][7]、地神祭りの営まれる場所を示す標石であったと考えられている[7]。
中央塔
形態と分布