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この道の先は地獄か、それとも……
「地獄への道は善意で舗装されている」(じごくへのみちはぜんいでほそうされている)、または「地獄への道は善意で敷き詰められている」(じごくへのみちはぜんいでしきつめられている、英: The road to hell is paved with good intentions)はヨーロッパのことわざ、格言。別の形として、「地獄は善意で満ちているが、天国は善行で満ちている」(じごくはぜんいでみちているが、てんごくはぜんこうでみちている)(英: Hell is full of good meanings, but heaven is full of good works)もある[1]。
由来聖ベルナルドゥス
このことわざは、第2回十字軍を推進したクレルヴォーのベルナルドゥスが「地獄は善意や欲望(あるいは、「良い願い」)で満ちている」(L'enfer est plein de bonnes volontes ou desirs) と書いた (1150年ごろ) ことが由来となっていると考えられている[2]。それより前に書かれたものとしては、ウェルギリウスのアエネーイスで「地獄へ下るのはたやすい」(facilis descensus Averno) というのもある[3]。 この句の一般的な解釈は、悪事または悪意は善意によって隠されているものだ、というものである。あるいは、善意でなされた行為であったとしても、その実行により意図せざる結果が招かれる、というものである。簡単な例でいえば、鯉に代表される外来種の導入が、導入当初には予期できなかった繁殖と行動から後に迷惑行為となった[4]、環境を守ろうとして行った行為が、かえって環境を破壊していた、などである。 また、この句のもう一つの意味は、個人が善意の行動を取ろうと意図していたとしても、その行動を取るのに失敗してしまう、というものである[5][6]。この失敗は先延ばしによるものかもしれないし、怠惰やその他の破滅的な悪習かもしれない[7]。すなわちこの句は、善意は最後までやりきらない限り意味がないという警句となっている[8]。 ピーター・ゴルヴィツァー(Peter Gollwitzer)、パスカル・シーラン(Paschal Sheeran)、シェイナ・オーベル(Sheina Orbell)らによって実施された、タスク完結に対する意図の効果についての心理学的研究では、この句にはいくばくかの真実が含まれていることを示している[9]。完璧主義者は特に、意図が裏目に出る傾向にある[10]。人は、自分の行為が他者の行為よりも、より善意によるものだと解釈する傾向にある、と主張する人もいる[11]。 集団の倫理的な行動を改善しようとする試みは、よく失敗に終わることが多い。そういった試みとして法律の制定を利用すると、人々は望ましい行動に改善するよりも、法の条文をそのまま遵守しようとする。交渉において、他者の視点を理解するように促されたグループは、指示を受けなかった人に比べて成績が悪かった。刑罰への恐れが、行動をより道徳的であるよりも、より道徳的でない方にさせる可能性もある[12]。企業倫理についての研究によれば、ほとんどの誤ちは、悪意に直接に由来するものではなく、むしろ過ちを犯すと予期していなかった人によってなされるという[13]。 利他主義についてスティーブン・ガラード・ポストはこう書いている。善意というものは、えてして見かけ通りのものではなく、人類はふつう表向きの理由ほど立派ではない、利己的な動機で行動する――「もし地獄への道が善意で舗装されているとすれば、その理由の一つは、大抵の人が選ぶのがまさにそのような道だからだ」[14] この成句を使った作家には、シャーロット・ブロンテ、バイロン、サミュエル・ジョンソン[15] 、サミュエル・テイラー・コールリッジ、ウォルター・スコット[16] 、セーレン・キェルケゴール[17]、カール・マルクス[18]などがいる。 映画『地獄のハイウェイ オジー・オズボーンは、アルバム「ダイアリー・オブ・ア・マッドマン」に収録されている「トゥナイト」でこの言葉を使っている。ピンクは2006年の曲 "Dear Mr. President" のなかで、落ちこぼれをつくらないための初等中等教育法(No Child Left Behind Act
意味
研究
アートにおける言及