地動説
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地動説の図

地動説(ちどうせつ)とは、宇宙の中心は太陽であり、地球はほかの惑星とともに太陽の周りを自転しながら公転しているという学説のこと。宇宙の中心は地球であるとする天動説(地球中心説)に対義する学説である。太陽中心説「Heliocentrism」ともいうが、地球が動いているかどうかと、太陽と地球のどちらが宇宙の中心であるかは異なる概念であり、地動説は「Heliocentrism」の訳語として不適切だとの指摘もある。聖書の解釈と地球が動くかどうかという問題は関係していたが、地球中心説がカトリックの教義であったことはなかった[1]。地動説(太陽中心説)確立の過程は、宗教家(キリスト教)に対する科学者の勇壮な闘争というモデルで語られることが多いが、これは19世紀以降に作られたストーリーであり、事実とは異なる[1]
歴史
古代の地動説地動説(下部の図)、天動説(上部の図)の 2つの図の比較

紀元前4世紀のアリストテレスの時代からコペルニクスの登場する16世紀まで、地球は宇宙の中心にあり、まわりの天体が動いているという天動説が信じられてきた。そもそも古代において、実際に自分の眼で見て、1日1度太陽が地平線の上に昇り、そして地平線下に下り、太陽以外の天体も同じように動いている以上、その現象をそのまま受け取って解釈するのが普通であった。

しかしながらに関してはほかの天体と動きが異なること、さらに天体観測が発達すると惑星がほかの天体と違った動きをとり、さらに時折、天球上を逆方向に動くことも認識された(逆行)。

そうした中、コペルニクスよりも以前に地球が動いていると考えた者がいた。有名なところでは紀元前5 - 4世紀前後のフィロラオスで、彼は宇宙の中心に中心火があり、地球や太陽を含めてすべての天体がその周りを公転すると考えた。

特に傑出していたのは、紀元前3世紀のイオニア時代の最後のアリスタルコスである。彼は、地球は自転しており、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転するという説を唱えた。彼の説が優れているのは、太陽を中心に据え、惑星の配置をはっきりと完全に示したことである。これは単なる「太陽中心説」という思いつきを越えたもので、惑星の逆行を完璧に説明できるのである。これはほとんど「科学」と呼ぶ水準に達している。紀元前280年にこの説が唱えられて以来、コペルニクスが登場するまでの1800年もの間、人類はアリスタルコスの水準に達することはなかった[2]

なお、後世のレオナルド・ダ・ヴィンチもまた、地動説に関する内容を「レスター手稿」に記している。

広い意味ではこれらも地動説(太陽中心説)に入る。
天動説の優勢

2世紀にはアポロニウスヒッパルコスクラウディオス・プトレマイオスが天動説を体系化した。彼らは決して迷信や宗教的な考えから天動説を唱えたのではなく、当時知られていた知見に基づき、科学的・合理的な解釈の帰結として天動説を唱えた。これに対し、アリスタルコスの地動説では、なぜ空を飛んでいる鳥は地球の自転に取り残されないのか、なぜまっすぐ上に投げ上げた石は地球の自転に取り残されずに元の位置に落ちてくるのか、その説明ができなかったことが弱点とされた。また、アポロニウスの提唱した従円と周転円の概念、さらにプトレマイオスの提唱したエカントの概念を得て、天動説は当時の天体観測の精度において、惑星の逆行をほぼ完璧に説明することができた。

とはいえ、おかしなところは存在した。たとえば

5つの惑星のすべての軌道計算に、必ず「1年」という単位が出てくる[3]

惑星の順序が何故その順であるかという根拠の提示が不明瞭

火星の逆行に関しては、やや誤差が多い

などが挙げられる。しかし、これらの現象を説明し、精密に惑星の位置を予報できるほかの説はなかなか現れなかった。

また、ヨーロッパでは古代ギリシア時代以降科学は停滞し、西ローマ帝国滅亡後は暗黒時代を迎えることになる。後述するようにヨーロッパにおいて科学が再び隆盛するのはルネッサンス以降である。

こうした理由で、科学的な難点を含みながらも16世紀まで天動説は支持された。天体観測の精度が向上するにつれてプトレマイオスの体系との乖離が見られるようになったが、周転円の上にさらに周転円を重ねる事で、説明された。16世紀にはコペルニクスが地動説を提唱するも、天体観測の精度においては天動説に優るものではなかった。
大航海時代

天動説の体系は長らく信じられてきたが、やがてそのさまざまなほころびが明確化してきた。

大航海時代以前は船舶の運航はもっぱら沿岸航海であり、陸地が見える範囲に限られ、何も目印のない遠洋を航行することができなかった。羅針盤が登場したことで陸地を離れた航行が可能となり、方位磁石と正確な星図があれば遠洋でも自分の緯度が正確に把握できるようになった。しかし当時の星表には問題がかなりあった[4]。特に惑星の位置は数度単位での誤差が常にあった。

さらに、もうひとつ問題が生じつつあった。当時使用されていたユリウス暦の1年は、観測される1年よりわずかに長かったのである。この結果、紀元前45年の制定以来1000年以上経つうちに暦と天体の運行にずれが生じ、たとえば暦の上の春分の日が3月21日であるのに対して、実際に観測される春分は10日早い3月11日となっていた。春分の日は、キリスト教でもっとも重要な行事の一つである復活祭の日付を計算するうえで基準となる日であり、これが10日もずれているのは問題があった。この問題はロジャー・ベーコンによって提起されていたが、約300年間放置されていた。

一般に言う1年は厳密には回帰年であり、その定義は、分点または至点から次の同じ分点または至点までの時間である。しかし、16世紀当時に信じられていたプトレマイオスの体系では、1年という値はほかの天文学的な値からは孤立した独立の量で[3]、太陽の位置を数十年から数百年以上かけて測定する以外に、1年の値を決定する方法がなかった。クーンによれば、この観測には大変な困難が伴い、改暦問題は16世紀以前の天文学者たちを常に悩ませることになった。
コペルニクスの登場ニコラウス・コペルニクス。16世紀に地動説を唱え、星の軌道計算を行った。

カトリック教会司祭であったニコラウス・コペルニクスは、この誤差に着目した。彼は地動説を新プラトン主義の太陽信仰として捉えていたと言われ[5]、そのような宗教的理由から、彼にとって正確でない1年の長さが使われ続けることは重大な問題だった。コペルニクスはアリスタルコスの研究を知っており、太陽を中心に置き、地球がその周りを1年かけて公転するものとして、1恒星年を365.25671日、1回帰年を365.2425日と算出した。1年の値が2種類あるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、ほかの恒星の位置にとるかの違いによる。

コペルニクスは1543年に没する直前、彼の思索をまとめた著書『天体の回転について』を刊行した。そこでは地動説の測定方法や計算方法をすべて記した。こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定し直せるようにした。コペルニクスが地動説の創始者とされるのは、このように検証を行ったためである[6]

またこの業績について、ガリレオ・ガリレイから「太陽中心説を復活させた」と評された[2]
コペルニクス以降の学説

その後、ローマ教皇グレゴリウス13世によって1582年グレゴリオ暦が作成されるが、改暦の理論にはコペルニクスの地動説は取り入られなかった。プトレマイオスの天動説も取り入れられていない。

しかし、コペルニクスが著書で初めてラテン語で紹介したアラビア天文学の月の運行の理論や算出した1年の値は、改暦の際に参考にされた。なお、この月の運行理論は、アラビアとは独立にコペルニクスが再発見したという説もある。
コペルニクスの地動説
理論

コペルニクスの地動説は、単に天動説の中心を地球から太陽に位置的に変換しただけのものではない。地動説では、1つの惑星の軌道が他の惑星の軌道を固定している。また、地球を含む全惑星の公転半径と公転周期の値が互いに関連しあっている。各惑星の公転半径は、地球の公転半径との比で決定される。同様に、地球と各惑星の距離も算出できる。これが、プトレマイオスの天動説との大きな違いである。プトレマイオスの天動説では、どんな形でも、惑星間の距離を測定することはできなかった。また、地動説では各惑星の公転半径、公転周期は、全惑星の値が相互に関連しているため、どこかの値が少しでも変わると全体の体系がすべて崩れてしまう[7]。これも、プトレマイオスの天動説にはない大きな特徴である。この、一部分でもわずかな変更を認めない体系ができあがったことが、コペルニクスにこの説が真実だと確信させた理由だと考える研究者も多い。

コペルニクスの地動説では、惑星は、太陽を中心とする円軌道上を公転する。惑星は太陽から近い順に水星、金星、地球、火星、木星、土星の順である[注釈 1]。公転周期の短い惑星は太陽から近くなっている。ただし、実際には、単純な円軌道だけでは各惑星の細かい動きを説明できず、コペルニクスの著書では、周転円や中心から外れた太陽が引き続き用いられた[1]


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