在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告ク詔勅
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在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告ク詔勅(ざいていのしんりょうおよびていこくいぎかいのかくいんにつぐしょうちょく、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:在廷󠄁ノ臣僚及󠄁帝?國議會ノ各員ニ?ク詔敕)とは、1893年明治26年)2月10日明治天皇より第2次伊藤内閣及び帝国議会(特に衆議院民党勢力)に対して下された詔勅のこと。和協の詔勅、和衷協同の詔、建艦詔勅などとも呼ばれている。
憲法第67条問題「大日本帝国憲法第67条」および「第1回帝国議会」も参照

大日本帝国憲法が公布されて実際に施行されていく過程において、1つの重要な問題が生じていた。
第64条
国家ノ歳出歳入ハ毎年予算ヲ以テ帝国議会ノ協賛ヲ経ヘシ 予算ノ款項ニ超過シ又ハ予算ノ外ニ生シタル支出アルトキハ後日帝国議会ノ承諾ヲ求ムルヲ要ス
第67条
憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出及法律ノ結果ニ由リ又ハ法律上政府ノ義務ニ属スル歳出ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス

大日本帝国憲法においては、予算は「帝国議会の協賛(賛同)を得なければならない」(第64条)とされており、帝国議会は必要に応じてこれに修正を加える事ができた。しかし、その一方で第67条に掲げる「法律上政府ノ義務ニ属スル歳出」(以下、「義務的経費」とする)については、政府の了承を得ない限り、帝国議会は予算案の削減をする事ができないものとされた。

ところが、憲法に規定された「義務的経費」が具体的にどのような経費に相当するかについては、これを定義づけた法的規定がなかったため、政府と民党の間でその範囲をめぐって激しい対立が生じた。これが第67条問題である[1]。政府は「富国強兵」の推進のため、議会によって予算が削減される事態を防ぐため、その範囲をできるだけ広く解釈しようと図り、逆に、民党は公約に掲げていた「民力休養」を実現させるために削減できる予算を増やしてその分を地租の削減にまわす構想(政費節減)を打ち出していたので、その範囲をできるだけ狭めようとした。なお、当時の実際の財政において大きな割合を占める公債費が第67条によって削減が不可能な義務的経費であるという点については民党側も争う余地がないとしていた。残りの経費について、何が「義務的経費」にあたるのか、1890年(明治23年)の第1回帝国議会以来、政府側と民党側の主張は激しく対立していたのである[1]

特に政府は、との関係緊迫化から海軍増強を至急の課題として位置付けて、人件費とともに軍事費も義務的経費に組み込むことを主張していた。一方の民党は、海軍増強の必要性は認めつつも、海軍を含めて各省庁に無駄が多いとして、人件費を削減して政府に人員経費などの行政整理を迫り、人件費や軍事費の義務的経費化には否定的な姿勢を示していた。第1回帝国議会において政府は、予算削減に応じる代わりに人件費の義務的経費化を事実上認めさせた[1]。なお、同議会において1891年(明治24年)2月20日天野若円大成会)が提出した、衆議院が第67条関連の予算削減を審議する際には事前に政府の了解を得るという決議が吏党自由党土佐派の賛成(いわゆる「土佐派の裏切り」)によって衆議院で可決され、政府もこれを了承した[2][注釈 1]。これは一見帝国議会における予算削減の権限を自主的に制約したようにもみえるが、裏を返せば予算先議権がある衆議院と政府が合意した予算削減に貴族院がさらに修正を加える余地をも奪うもので、衆議院が予算審議における貴族院に対する優越権を議会慣習のかたちで事実上確立したものとなった[2]。軍事費問題については結局先送りされ、結果的には第2回帝国議会における樺山資紀海軍大臣の「蛮勇演説」へとつながった[4]
伊藤博文の交通事故と第4議会召集「第2次伊藤内閣」および「第4回帝国議会」も参照

この問題は、翌1892年(明治25年)11月25日第2次伊藤内閣下で召集された第4回帝国議会にも引き継がれた[注釈 2]。ところが、このとき各党の内部では複雑な動きが起きつつあった。

まず、11月6日に吏党系議員のうち、藩閥政府の政策に失望していた議員が同盟倶楽部を旗揚げして「民党宣言」をした。このため、第2回衆議院議員総選挙以来続いてきた吏党による衆議院の優勢が崩壊して民党が再び半数近くを占めた。そして、11月15日に自由党大会が開かれた。党の事実上の最高指導者である板垣退助は、自由党を「責任政党」と位置付けて従来の反対一辺倒の姿勢を修正し、国民生活と教育、外交、国防については、政府に協力する用意があることを表明する一方で、海軍増強(新艦建造)については政府が海軍における軍政軍令の分離や行政の簡素化などの行政整理(行政改革)を行わない限りは賛成できないと表明した(逆に言えば、政府がこれらの改革を推進するならば、自由党は海軍増強を支持することも可能になる)。

一方、11月20日には吏党系議員が西郷従道元海軍大臣を会頭(党首)・品川弥二郎内務大臣を副会頭に迎えて国民協会を正式に発足させた[5]。国民協会結成に尽力したのは、九州出身の国粋主義者第2回衆議院議員総選挙で当選した新人議員が多く、彼らは前内閣の第2次松方内閣を支持し、その継続を望む勢力であった[5][注釈 3]。一方、長州藩出身で松方後継の伊藤博文に強い反感を抱いていた。

11月21日には立憲改進党幹部の島田三郎が先の板垣発言を非難して、同党の尾崎行雄もこれに同調した事から自由党と改進党の間で対立が生じた。これは、同盟倶楽部の仲裁で和解が成立した。

ところが、開院直後の11月27日の午後2時15分頃、首相官邸から私邸に戻ろうとしていた伊藤が乗っていた人力車が官邸正門から外に出ようとしたところ、折りしも走行中であった小松宮御息所が乗車した馬車と接触し、人力車の運転手が慌てて回避したものの車は横転し、転落した伊藤が重傷(後頭部打撲、額を負傷、前歯数本を折る)を負ったために全治2ヶ月と診断され、翌日に井上馨内務大臣が首相臨時代理を務めることになった[6]
井上馨臨時首相代理と一銭一厘問答

12月3日から衆議院予算委員会(委員長:河野広中)での明治26年度予算の審議が開始されたが、委員会は予算案歳出総額8,376万円のうち、新艦建造費332万円全額を含めた885万円の削減を要求した。政府はこれを受けて対応を協議したが、議会(衆議院)との妥協を主張する後藤象二郎農商務大臣と強硬策を唱える山縣有朋司法大臣との間で意見が一致せず、ベテランとはいえ準備もないままに突如内閣の首班を代行することになった井上もその対応に苦慮していた。井上は静養中の伊藤に手紙を送って協議した結果、吏党も民党もともに倒閣を画策していると判断して山縣の意見を採る事とした。

明けて1893年(明治26年)1月16日、井上臨時首相代理は先年の衆議院決議に基づいて義務的経費に相当する345万円の削減(ほとんどが新艦建造費)は認められないと答弁した。これに民党・吏党ともに反発したが、直後に開かれた予算委員会において尾崎行雄が「一銭一厘たりとも政府提出の原案と違っては行政機関の運転を円滑にし法律上の責務を尽すことが出来ぬと言うのでありますか?」と質問した際に渡辺国武大蔵大臣が直ちに「その通りであります」と答弁し(「一銭一厘問答」)、更に同日に政府に対して再考を求める河野委員長発議の動議を翌17日に井上が拒絶を表明した事から、議会は総理大臣がいない政府を弱体と見てさらに攻勢をかけ、政府の反省を求めて22日までの休会を宣言した。


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