在原業平
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 凡例在原 業平

時代平安時代初期 - 前期
生誕天長2年(825年
死没元慶4年5月28日880年7月9日
官位従四位上蔵人頭右近衛権中将
主君仁明天皇文徳天皇清和天皇陽成天皇
氏族在原氏
父母父:阿保親王、母:伊都内親王
兄弟兼見王、仲平、行平守平、業平、
行慶、源弘室、女子
紀有常
棟梁滋春、美子
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在原 業平(ありわら の なりひら)は、平安時代初期から前期にかけての貴族歌人平城天皇の孫。一品阿保親王の五男。官位従四位上蔵人頭右近衛権中将

六歌仙三十六歌仙の一人。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによる[1]

全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。
出自

父は平城天皇の第一皇子阿保親王、母は桓武天皇皇女伊都内親王で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)に父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らと共に在原朝臣姓を名乗る。
経歴

仁明朝では左近衛将監蔵人を兼ねて天皇の身近に仕え、仁明朝末の嘉祥2年(849年无位から従五位下直叙される。文徳朝になると全く昇進が止まり、官職に就いた記録もなく不遇な時期を過ごした。なお、後述の貞観4年(862年)の従五位上への叙位正六位上からの昇叙ともされ[2]、文徳朝で位階を降格された可能性もある。

清和朝では、貞観4年(862年)に従五位上に叙せられたのち、左兵衛権佐・左近衛権少将と武官を務める。貞観7年(865年右馬頭に遷るとこれを10年以上に亘って務め、この間に貞観11年(869年正五位下、貞観15年(873年従四位下と昇叙されている。

陽成朝に入ると、元慶元年(877年)従四位上・右近衛権中将に叙任されて近衛次将に復すと、元慶3年(879年)には蔵人頭に任ぜられるなど要職を務める。蔵人頭への任官については皇太夫人藤原高子からの推挙があったとも想定される[3]。またこの頃には、文徳天皇の皇子惟喬親王に仕え、和歌を奉るなどしている。元慶4年(880年)5月28日卒去享年56。最終官位は蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守。
人物在原業平と二条后(月岡芳年画)

日本三代実録』の卒伝[4]に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、昔から美男の代名詞とされる。この後に「略無才学、善作倭歌」と続く。基礎的学力が乏しいが、和歌はすばらしい、という意味だろう。[5]

歌人として『古今和歌集』の30首を始め、勅撰和歌集に87首が入集している[6]。『古今和歌集仮名序』において紀貫之が業平を「その心余りて言葉足らず」と評したことはよく知られている。子の棟梁滋春、棟梁の子・元方はみな歌人として知られる。兄・行平ともども鷹狩の名手であったと伝えられる[注釈 1]

早くから『伊勢物語』の主人公のいわゆる「昔男」と同一視され、伊勢物語の記述内容は、ある程度業平に関する事実であるかのように思われてきた。『伊勢物語』では、文徳天皇の第一皇子でありながら母が藤原氏ではないために帝位につけなかった惟喬親王との交流や、清和天皇女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)、惟喬親王の妹である伊勢斎宮恬子内親王とみなされる高貴な女性たちとの禁忌の恋などが語られ、先の「放縦不拘(物事に囚われず奔放なこと)」という描写と相まって、高尊の生まれでありながら反体制的な貴公子というイメージがある。なお『伊勢物語』成立以降、恬子内親王との間には密通によって高階師尚が生まれたという説が派生し、以後高階氏は業平の子孫ではないかと噂された。

紀有常女(惟喬親王の従姉にあたる)を妻とし、紀氏と交流があった。しかし一方で、藤原基経の四十の賀で和歌を献じた[注釈 2]。また長男・棟梁の娘は祖父譲りの美貌で基経の兄・藤原国経の妻となったのち、基経の嫡男時平の妻になるなど、とくに子孫は藤原氏との交流も浅からずある。

同じく『伊勢物語』に描かれた「東下り」についてもその史実性については議論がある。通説では貴種流離譚の一種とみなす説が強いが、角田文衛のように母の服喪中の貞観4年(862年)の出来事とする説がある[7]。戸川点は史実か創作かは断定できないとした上で、業平や父の阿保親王が中央との兼官ながら東国の国司を務めていたことに注目し、当時問題となっていた院宮王臣家の東国への進出(荘園の形成・経営)に業平周辺も関わっており、創作であったとしてもその背景になる事実はあったとみている[8]。また業平自身も晩年には蔵人頭という要職にも就き、薬子の変により廃太子された叔父の高岳親王など他の平城系の皇族や、あるいは当時の藤原氏以外の貴族と比較した場合、むしろ兄・行平ともども政治的には中枢に位置しており、『伊勢物語』の「昔男」や『日本三代実録』の記述から窺える人物像と、実状には相違点がある。
官歴

注記のないものは『六国史』による。

承和12年(845年) 日付不詳:左近衛将監[9]

承和14年(847年) 正月12日:蔵人[9]

嘉祥2年(849年) 正月7日:従五位下直叙

貞観4年(862年) 3月7日:従五位上

貞観5年(863年) 2月10日:左兵衛権佐。3月28日:次侍従

貞観6年(864年) 3月8日:左近衛権少将

貞観7年(865年) 3月9日:右馬頭

貞観11年(869年) 正月7日:正五位下

貞観15年(873年) 正月7日:従四位下[9]


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