土谷正実
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同音異字のミュージシャン「土屋昌巳」あるいは藤子・F・不二雄の長女「土屋匡美」とは別人です。

オウム真理教徒土谷 正実
誕生 (1965-01-06) 1965年1月6日
日本 東京都町田市
死没 (2018-07-06) 2018年7月6日(53歳没)
日本東京都葛飾区小菅東京拘置所
出身校筑波大学
ホーリーネームボーディサットヴァ・クシティガルヴァ
ステージ正悟師
教団での役職厚生省次官 → 第二厚生省大臣
化学班キャップ
入信1989年4月22日
関係した事件松本サリン事件
会社員VX殺害事件
地下鉄サリン事件
判決死刑(執行済)
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土谷 正実(つちや まさみ、1965年1月6日 - 2018年7月6日)は、元オウム真理教幹部・元死刑囚東京都出身。筑波大学大学院化学研究科修士課程修了、博士課程中退。化学(物理化学有機化学)を専攻。
来歴
入信前

長男として東京都町田市で出生。5歳下の妹、7歳下の弟がいる。家庭は裕福だった。幼少期は内向的でおとなしく、のちにオウム入信をめぐって激しく対立することになる母親から非常に可愛がられて育つ[1]。夢を正夢にするなど[2]合理的に説明できない感覚があり、教師に尋ねたが、納得のいく回答は得られなかった[3]
入信後

オウム真理教におけるホーリーネームクシティガルバ。教団では第二厚生省大臣をつとめた。教団の化学者として化学兵器薬物を生成し、マスコミから化学班キャップと呼ばれた。ステージは菩師長であったが、地下鉄サリン事件直前に正悟師に昇格した。殺害実行や謀議には関わっていないが、サリン生成方法を確立し無差別大量殺人を可能にしたとして大量殺傷事件の共同正犯2011年死刑判決が下った2018年7月6日東京拘置所にて麻原彰晃らと共に死刑執行[4]
経歴
中学・高校時代

町田市立南中学校に入学すると活発なクラスの人気者になる。楠木正成の「楠公精神」をきっかけとして日本史に関心を持つ[5]東京都立狛江高等学校時代はラグビー部に所属。生きがいのように打ち込み、中心選手として活躍した。性格は明るくひょうきんで、同級生にも後輩にも慕われていた。高校時代の愛称は「ツッチー」[6]。成績は良くなかったが、高校2年生の時にイオン化傾向に興味を抱いて化学を勉強し始め[7]、学年トップになる。相性の悪い先生に代わると一気に点数が0点近くまで落ち、好き嫌いの激しい一面があった。この頃、人間が一生のうちに脳細胞の数%しか使わずに死んでいくという説を知る。「非効率だ、これを100%近くまで発揮するものがあるはずだ」と考えていた時にテレビ番組でヨーガを知り、漠然とした興味を抱く[8]。松本サリン事件の共犯者でもあり、死刑が確定した端本悟は高校時代の後輩でもある。
大学・大学院時代

ヨーガを極めるためヒマラヤへ行きたいと思うが現実的ではないので諦め[3]、1浪して1984年筑波大学第二学群農林学類へ進学。荒井由実中島みゆきを聴くごく普通の青年だった[9]。高校時代から憧れていたラグビー部に入部。しかし、早々に重傷を負い5月末には退部を余儀なくされて、自暴自棄に陥り酒浸りの生活を送る[10]。生活はだらしなく、時間にもお金にもルーズであった[6]。高校時代からの恋人との交際を反対する父親と喧嘩になり、仕送りを断たれて新聞配達アルバイトで食いつなぐが、次第に恋人とうまくいかなくなる。夜遅くまで何度も電話をかけては、恋人と連絡が取れないと傷つき、床を転げ回って苦しんだ。漫画ゴルゴ13』のワンシーンを思い出し「体を傷つければ心の痛みを忘れられる」と自ら胸を果物ナイフで40cm切りつけた。「肉体的苦痛により精神的苦痛が和らいだ」、「この気持ちを合理的に説明するのは宗教だ」、「新たな価値観を掲示する団体が登場したら所属しよう。それまでに得意な化学の能力をより伸ばしておこう」と考えた[7][3]1986年夏、恋人にふられ、別れたことを父親に報告すると仕送りが再開。授業にはあまり出なかったが、化学だけは熱心に勉強し[10]、卒業論文は「木材の防腐剤に関する研究」だった[6]

卒業後は同大学院博士前期課程化学研究科へ進学。院試で「もし不合格になったらどうするのか」と問われ、「そのときは青年海外協力隊に参加したい」と回答していた。大学院では有機物理化学研究室に入室し、炭化水素光化学反応を研究。修士論文は「片道異性化に関する研究」であった[11]。指導した教授は「発想力豊かで、将来国際的な研究者になる」と高く評価した[12]。博士後期課程に進んだがオウムにのめり込んで研究室へ顔を出さなくなり、1993年に正式に中退した。
入信・出家
入信及び洗脳の経緯

1989年2月、同乗していた車が交通事故を起こして鞭打ち症を患い[13]医師の勧めで水戸市内のヨーガ教室へ通いはじめる。同年4月22日、友人から麻原彰晃説法会に誘われた。説法は遅刻して聞き損ねたが、科学に詳しい村井秀夫に関心を抱いて、村井の勧めに従い同日世田谷道場を訪れた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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