土芥寇讎記
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出典検索?: "土芥寇讎記" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2017年11月)

『土芥寇讎記』(どかい こうしゅうき)は、江戸時代中期の元禄時代に書かれたと考えられている、各藩の藩主や政治状況を解説した本。当時の政治状況や各藩に対する認識を示した珍しい史料として注目される一方、編著者名や製作された目的もいまだ不明で、「謎の史料」とも言われる。
題名の由来

孟子』巻八「離婁章句下」第二段の君の臣を視ること手足の如ければ 則ち臣の君を視ること腹心の如し。君の臣を視ること犬馬の如ければ 則ち臣の君を視ること国人の如し。君の臣を視ること土芥の如ければ 則ち臣の君を視ること寇讎の如し。

から取られたと推測される。
概要

記述内容から元禄3年(1690年)から4年にかけて脱稿したと思われる。

原本は和綴本全43冊、首巻に総目録、第1巻が徳川将軍家の始祖新田義重から家康までの略伝、第2巻?第42巻に支藩を含めた諸大名242人について、親藩を先に、次に諸藩(譜代外様の区別無し)の順に記述されている。諸藩の中の順は、一部の例をのぞいて[注釈 1]、ほぼ石高の高い方から降順に記述されている。

一種の各藩の「紳士録」とも言える物であり、この後江戸時代後期に刊本として流通した「武鑑」の嚆矢となったとも言われている。が、『土芥寇讎記』は現在東京大学史料編纂所が蔵しているものしか確認されておらず、余り一般には流通しなかった本ではないかとも考えられ、それゆえ「謎の史料」と言われている。
特徴

儒教に基づいた教訓や道徳に基づいて、辛辣な評価が書かれているのが大きな特徴である。親藩、譜代、外様の区別を問わず、むしろ外様の大藩大名には比較的好意をもった評価[注釈 2]が下されている。

逆に、儒学や古典籍の教養が無いものを「文が無い」として低評価する傾向にあり、また男色趣味の大名に低評価を与える傾向がある。

各藩ごとの記述の形式は整然とまとまっており、各藩の概要について比較して読むことが出来る。
編著者の謎

全国諸藩を同時期に調査し、その町中の噂すら採取されている内容から見て、「幕府の当局者か、将軍家に近侍した誰かがこれらの調査を行いまとめた」という推測がされてきた。よく言われるのは「隠密を使って各藩の内容を潜行調査した」という説である[注釈 3]

また、既述のように『土芥寇讎記』は現在1集しか伝わっていないが、

総目次と実際の項目に差異があること

ある冊は一人で浄書したのに対し、ある書は3人ぐらいで浄書した形跡があるなど統一がとれていない

ことから、何らかの事情により未完成のまま、原本のみが伝わった可能性も指摘されている。

儒教色強い記述内容から徳川綱吉の意向が反映された可能性は高いが[注釈 4]、幕府がどれだけ関わったのか、それとも幕府とは関係なく編纂された物なのか、ともかく、前書きも奥付も全くない史料のため、その編著者や目的などがいまだ不明の史料である。

著者に関しては綱吉の側近、牧野成貞とする説もある。
目次

第一巻
徳川氏 
新田義重新田(徳川)義季世良田頼氏、世良田教氏、世良田家持、世良田満義、世良田政義、世良田親季、徳川有親、松平親氏松平泰親松平信光松平親忠松平長親松平信忠松平清康松平広忠徳川家康

第二巻

徳川光友尾張藩

徳川光貞紀伊藩


第三巻

徳川光国[注釈 5]水戸藩

徳川綱豊甲府藩


第四巻

松平昌親越前藩

松平頼常高松藩

保科正信会津藩

松平綱通松江藩


第五巻

松平(前田)綱紀加賀藩

松平(伊達)綱村仙台藩


第六巻

松平(島津)綱貴鹿児島藩

細川綱利熊本藩

松平(黒田)綱政福岡藩


第七巻

松平(浅野)綱長広島藩

松平(毛利)吉就萩藩

松平(鍋島)光茂佐賀藩


第八巻

井伊直興彦根藩

松平(池田)綱政岡山藩

松平(池田)綱清鳥取藩

藤堂高久津藩


第九巻

松平(蜂須賀)綱矩徳島藩

松平(山内)豊昌高知藩

佐竹義処秋田藩

有馬頼元久留米藩


第十巻

奥平昌章宇都宮藩

大久保忠朝小田原藩

小笠原長胤中津藩

南部重信森岡藩


第十一巻

森長成津山藩

上杉綱憲米沢藩

榊原勝乗村上藩

松平直矩山形藩


第十二巻

松平忠弘白川藩

松平(久松)定直伊予松山藩

小笠原忠雄小倉藩

酒井忠直庄内藩


第十三巻

酒井忠明厩橋藩

酒井忠門小浜藩

本多政武姫路藩


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