土橋正幸
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土橋 正幸
基本情報
国籍 日本
出身地東京府東京市浅草区(現:東京都台東区
生年月日 (1935-12-05) 1935年12月5日
没年月日 (2013-08-24) 2013年8月24日(77歳没)
身長
体重178 cm
78 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1955年
初出場1956年6月6日
最終出場1967年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


東京都立日本橋高等学校

フランス座軟式

東映フライヤーズ (1955 - 1967)

監督・コーチ歴


東映フライヤーズ
日拓ホームフライヤーズ (1969 - 1973)

ヤクルトスワローズ (1984 - 1986)

日本ハムファイターズ (1992)

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土橋 正幸(どばし まさゆき、1935年12月5日 - 2013年8月24日)は、東京都台東区出身[1]プロ野球選手投手)・コーチ監督解説者

軟式野球から硬式野球に転向した異色の経歴ながら、昭和30年代(1950年代後半?1960年代前半)に東映で主力投手として活躍。現役引退後は東映→日拓→日本ハム、ヤクルトでコーチ・監督を歴任した。江戸っ子風の頑固親父的な独特のキャラクターで、野球解説者としても人気を博した。
経歴
少年時代

浅草雷門の生まれで、実家は鮮魚店だった[1]。戦時中は千葉の幕張疎開していたが戦後、東京に戻った中学生の時に水泳部に所属する傍ら野球と出会い[1]、草野球チームの雷門サンダースに所属していた[1]

都立日本橋高校を卒業後、家業の魚屋で働く傍ら浅草にあったストリップ劇場「フランス座」(現在は「浅草フランス座演芸場東洋館」に改称)が保有していた軟式野球チームに所属していた[2]。当初は捕手であったが、のちに投手に転向し[3]作家井上ひさしともバッテリーを組んでいた。当時のフランス座は、鶴田浩二率いる鶴田ヤンガースと張り合ったチームで[3]読売新聞が主催する23区の軟式野球大会に出場すると、台東区の予選で優勝[1]後楽園球場で行われた本選では、第一戦で前年度優勝チームの府中刑務所を破った[1]

1954年秋に東映フライヤーズの入団テストを受ける友人に付いて行ったところ、土橋が合格し入団することになった。土橋は、家業の魚屋で使うような長靴でテストに臨んだが、普通は30球ほど投げるところを10球ほど投げたところでOKが出たという[4]
プロ野球時代

契約金はなく、月給は5,000円だった。合宿所の1日の食費が200円で月6,000円引かれたため、1958年まで4年間実家から毎月1万円の援助を受けていた[5][6]。東映入団に対して母親は猛反対していたが、土橋は「3年間で駄目だったら帰ってくる」と約束。のち、入団3年目の1957年に初勝利を挙げ、ぎりぎりの所で約束を守っている[7]

二軍時代の練習は、午前10時から練習を始めて約1時間の投球練習(約150球)、次にフリーバッティングの投手を務め、それから二軍戦に登板。さらに、土橋がモノになると見込んだ投手コーチの今西錬太郎によって、居残り特訓として約2時間の投球練習を課されるなど、1日の練習時間は7,8時間に及びほとんど投げてばかりいた。しかし、この過酷な練習のおかげで、一軍に昇格した頃には目を瞑っていても外角低め・内角低めに思うままに投げられるようになっていたという[8]

入団3年目の1957年8月1日近鉄戦に完封でプロ初勝利を飾ると[1]、終幕までに5勝を挙げて頭角を現す。翌1958年には21勝(16敗)防御率2.12(リーグ6位)と東映のエースとなる。同年5月31日には当時三連覇中で流線型打線と呼ばれた強力打線を擁する西鉄相手に、1回2死で登場した四番・大下弘から三番・中西太まで9連続奪三振のNPBタイ記録(当時[注 1][10]。9人目の中西を三振に仕留め、10人目の大下を迎えたところで、捕手の安藤順三が「大下さん、もう一つお願いしますよ」と新記録を願ったが、大下は「ダメだダメだ」と言って、当てに行くバッティングでセカンドゴロを打ち、新記録にならなかったという[11]。この試合では、沢村栄治の15奪三振を上回る1試合16奪三振の日本記録(当時)を樹立している。1959年にはオールスター前までに早くも20勝に到達。後半戦はペースダウンするが、杉浦忠(38勝)、稲尾和久(30勝)に次ぐ、27勝を挙げ、防御率2.36(リーグ5位)を記録した。

1960年は、開幕前の調整がうまくいかなった影響で12勝23敗と大きく負け越したものの、東映で2桁勝ったのも200投球回以上投げたのも土橋だけだった[1]。土橋は球団から「12勝23敗だから年俸は10%ダウンだって言う。冗談じゃない。俺が一人で頑張ってんのに、何が10%だ!」[1]。それで契約しないでいると、当時巨人のコーチであった川上哲治と選手の藤田元司から「巨人に来ねぇか?」と誘われたという[1]。土橋によると「いろんな条件面も言ってくれてね。年俸は東映の倍だって言う。それは私だってプロだもの、心動きますよ。川上は今日はオヤジ(水原茂)は他の用事で来られないと言ってたけど、実はもうその時点で、監督が川上に替わるのは決まってたと思うな」と語っている[1]。年が明けて土橋が東映と契約しないでいたところ、同年から東映の監督に就任した水原が「巨人の話は断った。俺は東映で契約のお金まで口出せる立場になった。だから減俸しない」と言われ東映に残留することになった[1]

土橋は水原について、「水原は血もない涙もない監督だった。でも、監督はそれぐらいじゃないとダメ、優勝できないね。私は結婚して、仲人、水原だったけど、シーズン中、水原と会話もなかったし、一度も褒められたことがない」と語っている[1]。「巨人であれだけ実績を残した人が、東映へ来てまた一からチームを把握していったのだからすごい」とも語っていた[12]


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