土橋守重
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 凡例土橋 胤継
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕不明
死没天正10年1月23日1582年2月15日
改名土橋胤次、胤継[注釈 1]
別名通称:平次、若大夫[2][3]
:守重
氏族土橋氏
父母土橋重隆?
春継、平次、泉職坊快厳、威福院、くす千代、鈴木重秀室?
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土橋 胤継(つちはし[4]/つちばし[2] たねつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将雑賀衆の一人。紀伊国粟村城主[2]は「守重」ともされるが、文書で確認できる名は「胤継」[2]
出自

土橋氏は雑賀荘土橋(粟村東部、現在の和歌山市粟付近[5])を拠点とした土豪[6]、雑賀五組(雑賀荘・十ヶ郷・宮郷・中郷・南郷[7])では十ヶ郷の鈴木氏[6]と並ぶ有力者だった[8]根来寺の有力子院・泉職坊(泉識坊[9])を有しており[10]、同坊の門主は土橋氏から出ている[11]

紀伊続風土記』によると、土橋氏は村上源氏の出で、右大臣源顕房の後裔であるという[12][13]仁平年間(1151?54年)に越前国大野郡土橋の里(福井県大野市[3])に移住した平次大夫重平が土橋を称し、承安2年(1172年)、重平は紀伊国名草郡に移り住んだ[12][13]。重平の子孫・重勝は細川高国に属し、大永7年(1527年)に長男・重胤と共に桂川の戦いで戦死した[12][13]。重勝の次男に重隆がおり、平次守重(胤継)はその長男とされる[12][13]
生涯

永禄5年(1562年)7月の湯河直春起請文の宛所36人の中に「土橋 平次」としてその名がある[14]。同月21日、「土橋平次胤次」と署名した書状を湯河式部大輔に宛てて送っている[15]

元亀元年(1570年[16]に始まる石山合戦では、鈴木重秀と共に本願寺に味方し、織田信長と敵対した[2]天正5年(1577年)に信長により雑賀が攻められた際には、鈴木重秀ら6人と連名で降伏を申し出て赦免された[17]

天正8年(1580年)、本願寺門主顕如が織田信長と和睦すると、顕如の子・教如はそれに反対した[18]。こうした中で同年6月、胤継は子の春継と連名で、顕如に馳走する旨を記した起請文を、佐久間信盛松井友閑らに宛てて提出している[19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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