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凡例土方 義苗
土方義苗像(見性寺蔵)
時代江戸時代後期
生誕安永7年5月7日(1778年6月1日)
死没弘化2年6月28日(1845年8月1日)
改名彦吉(幼名)、義苗
戒名霊光院殿一灯自照大居士
墓所東京都文京区湯島の麟祥院
官位従五位下、大和守
幕府江戸幕府
藩伊勢国菰野藩主
氏族木下氏→土方氏
土方 義苗(ひじかた よしたね)は、伊勢菰野藩の第9代藩主。 安永7年(1778年)5月7日、第6代藩主・土方雄端の三男・木下俊直
生涯
寛政7年(1795年)、雄年が死去すると、藩政を主導する。雄年が生前に派手な生活を送って借金が重なり、藩財政が破綻寸前となっていたため、義苗はまず財政改革に乗り出した。「臨時準備積立法」を制定して年間225俵の米を1割2分の利子で13年間に1500両も積み立てた。さらに質素倹約や経費節減、灌漑工事、産業開発などを積極的に行なった。特に倹約は厳しく取り締まり、その結果12年間で9800両の借金を1400両にまで削減したと言われている。こうした一連の緊縮財政政策により、財政再建は成功した。
さらに民政においては、減税政策や目安箱設置による優秀な意見の採用を行ない、教育面では学問を奨励して、後の藩校・修文館の前身となる私塾・麗沢書院の設立を行なって人材の育成に努めた。
天保6年(1835年)1月、長男の雄興に家督を譲って隠居する。しかしその雄興が天保9年(1838年)に早世すると、孫の雄嘉に家督を継がせて、自らは藩政の実権を弘化2年(1845年)6月28日に死去するまで握り続けた。享年68。
菰野藩中興の名君と言われている。
註^ 山田忠雄「田沼意次の政権独占をめぐって」1972年4月(『史学44(3)』慶應義塾大学)
表
話
編
歴
土方氏菰野藩9代藩主 (1782年 - 1835年)
土方雄氏1600-1635
土方雄高1635-1651
土方雄豊1652-1705
土方豊義1705-1719
土方雄房1719-1750
土方雄端1750-1758
土方雄年1758-1780
土方雄貞1780-1782
土方義苗1782-1835
土方雄興1835-1838
土方雄嘉1838-1858
土方雄永1858-1870
土方雄志(藩知事)1870-1871
廃藩置県
更新日時:2019年6月24日(月)15:13
取得日時:2019/09/22 14:28