土師ニサンザイ古墳
墳丘全景(左方に前方部、右方奥に後円部)
所属百舌鳥古墳群
所在地大阪府堺市北区百舌鳥西之町3丁
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度32分48.91秒 東経135度29分54.77秒 / 北緯34.5469194度 東経135.4985472度 / 34.5469194; 135.4985472
土師ニサンザイ古墳(はぜニサンザイこふん)は、大阪府堺市北区百舌鳥西之町にある前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「東百舌鳥陵墓参考地」(被葬候補者:第18代反正天皇の空墓)として治定されている。内濠は国の史跡に指定され、世界文化遺産 百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群- の構成資産の一部としても登録されている。 名称が、いつから「ニサンザイ」と呼ばれていたかは不明だが、文献で「ニサンザイ」の表記が表れるのは明治時代以降である。宮内庁所蔵の1902年(明治35年)の文書に「ニサンザイ」と記されており、1922年(大正11年)の『大阪府全志』に「ニサンサイ」と記されている[2]。元禄13年(1700年)の『泉州志』では「山稜(ミササキ)」と記されている[2]。そのため「ニサンザイ」や「ミサンザイ」は、「ミササギ(陵)」の転訛したものと考えられている[3]。 宮内庁によると、本墳は、規模から皇室の陵墓の可能性があり、将来の考証に備え保存を目的とし取得したとされ、1886年(明治19年)に「御陵墓伝説地」の票木を建て、1909年(明治42年)に買収を完了したとされる[2]。墳丘は、反正天皇の空墓の陵墓参考地として宮内庁が管理し[4]、濠は堺市が管理している[5]。 百舌鳥古墳群の南東の端にある前方後円形墳で、前方部を西方に向ける。墳丘は3段築成で、盾形の濠を有し、後円部径156メートルに比して前方部幅が224メートルと広く、前方部高が後円部高を上回り、前方部が大きな前方後円墳である[6]。現状の墳丘長は290メートル。くびれ部の左右には造出しを有する。主体部の構造や副葬品はわかっていないが、葺石と埴輪があることが確認されている[4]。2012年(平成24年)に墳丘裾の護岸工事の際に行われた調査において、現在の墳丘の端から5メートル外側の濠の底から本来の裾部分が検出されたため、本来の墳丘長は300メートル以上で全国第7位の規模になるとされている[7]。 墳丘周囲には周濠が巡らされている。現在のものは一重であるが、二重目の外濠が一部確認されている。この周濠には木橋が架けられていたことが判明しており、検出された橋脚柱穴によればその規模は幅約12メートル・長さ45メートル以上と古墳時代最大級になるが、短期間で撤去されていることから葬送用の一時的な橋であったと推測される[8]。5世紀後半の築造と考えられており、百舌鳥古墳群の大型古墳の中では最も時代が新しい。 同じ百舌鳥古墳群の田出井山古墳が反正天皇陵に比定されているが、規模が小さく、本古墳の方が約4倍の大きさがあり、本古墳を反正天皇陵とする説がある[9]。
概要