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土岐氏
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}土岐桔梗(ときききょう)
本姓清和源氏頼光流
家祖土岐光衡
種別武家
華族(子爵)
出身地美濃国土岐郡
主な根拠地美濃国
伊勢国
東京市渋谷区永住町
土岐氏(ときし)は、武家・華族だった日本の氏族。清和源氏頼光流多田源氏の一流で平安時代末期に美濃国土岐郡に土着して土岐氏と称した。南北朝時代に足利氏に従って美濃国守護として繁栄したが、戦国時代の1552年(天文21年)に土岐頼芸が斎藤道三に追われて嫡流は衰退[1]。土岐氏の支流のひとつ明智氏出身の土岐定政が徳川氏の下で大名に出世し、江戸時代には上野国沼田藩3万石の譜代大名として存続し、維新後には子爵家に列した[2]。 清和源氏源頼光の7代の孫光衡が平安時代末期に美濃国土岐郡内に住したことで土岐氏と称したのに始まる[1]。 土岐頼兼や一族の多治見国長らは1324年に正中の変に参加して失敗したが、土岐頼貞が足利尊氏に従って美濃国守護に任じられる[1]。南北朝時代に家紋である桔梗を冠した一族一揆を結んで足利方として活躍し、特に土岐頼康、土岐康行は美濃国・尾張国・伊勢国の3か国守護を兼務して繁栄したが、康行の代に足利義満の討伐を受けて尾張・伊勢守護職を失った。美濃国でも豊嶋斎藤合戦
概要
土岐氏は美濃国のみならず常陸、上総など関東に点在した他、美濃国内には多治見氏、妻木氏、下石氏、肥田氏、猿子氏、小里氏、明智氏、久々利氏、石谷氏、土井氏、金森氏、蜂屋氏、乾氏、青木氏、原氏、浅野氏、深沢氏、饗庭氏、仙石氏、荻原氏、舟木氏、徳山氏、高山氏、 ⇒神野氏(土岐頼忠「清水姓や神野姓を使っていた」の現子孫は:神野姓を名乗り、家紋は土岐桔梗ではなく笹竜胆である)など多くの庶流と称する家があり(真偽不明のものも含む)、多くの人物を輩出した。著名な、明智光秀・浅野長矩(浅野内匠頭)などが土岐支流と称していた。
支流のひとつ明智氏の出身である土岐定政が徳川氏に仕えて大名に出世し、江戸時代には上野国沼田藩3万石の譜代大名として存続、明治維新後華族に列し、1869年(明治2年)の版籍奉還で沼田藩知事に転じ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで務めた[3]。明治17年(1884年)の華族令の施行に伴い、子爵家に列した[2]。
家紋は水色桔梗紋で、白黒紋でなく彩色紋として知られる。土岐光衡が戦争で桔梗花を兜に挟んで戦ったのを記念して、家紋としたのが始まりである。「土岐桔梗」と呼ばれている。旗紋としては水色地に白抜きの桔梗紋が使われた。ただし、すべての血族が土岐桔梗を使ったとはいえないのが現状である。
現在も地名で、岐阜県土岐市土岐津町や瑞浪市土岐町などゆかりの地名があり、旧土岐郡地域の土岐市、瑞浪市、多治見市の市の花は、桔梗である。
美濃土岐氏、一日市場館など)を構えて土岐氏を称したのが始まりである。
頼国の子の国房以降、美濃国内における活動が史料上に見られる。土岐氏の祖については系図類により国房、光国、光信、光衡の諸説あってはっきりしないが、光衡を祖とする説が有力である。 光衝は治承・寿永の乱の時代の人物で、鎌倉幕府の成立にともない源頼朝の御家人になった。江戸時代の書物に光衝が美濃守護に就任したという記述があるが、信憑性は低い。鎌倉時代の美濃の守護は大内惟義、大内惟信、その後は北条氏、宇都宮氏であり、鎌倉時代に土岐氏が守護になったことはない。
鎌倉時代