土岐成頼
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 凡例土岐 成頼

時代室町時代 - 戦国時代
生誕嘉吉2年(1442年
死没明応6年4月3日1497年5月5日
改名成頼、宗安(法名)
別名二郎[1]
戒名瑞龍寺殿国文宗安大居士
墓所岐阜県岐阜市寺町の瑞龍寺
官位左京大夫美濃守従四位下[1]
幕府室町幕府 美濃国守護
氏族諸説あり、清和源氏 頼光流 土岐氏
父母父:諸説あり
養父:土岐持益
兄弟一色義有?、一色義信?、一色義清?
斎藤利永の娘(斎藤妙純の妹)[2]
政房(頼継)大桑定頼、佐良木尚頼[3]、上坂景頼[注 1]元頼、萱津頼房、某(六角高頼猶子)
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土岐 成頼(とき しげより)[注 2]は、室町時代から戦国時代武将守護大名美濃国守護土岐氏第11代当主。法名は宗安。金森長近の曾祖父にあたる[4]
生涯

父については諸説あり(後述)。

康正2年(1456年)、美濃国守護・土岐持益が隠居をするに際して、その嗣子・持兼は早世していたため、継嗣の問題が起こる[5]。揖斐基春、山岸貞朝らは、持兼の庶子・亀寿丸を擁立したが、土岐家の執事・斎藤利永はこれに反対し、土岐氏の一族・饗庭氏出身の成頼を家督につけた[6]左京大夫美濃守となる[4]

第8代将軍足利義成(後の義政)から偏諱(「成」)を与えられて成頼と名乗る[1]

応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると成頼は8000余騎を率いて西軍方に属した[7][1]。美濃本国は守護代の斎藤妙椿が守った[注 3]

同年8月、大内政弘の加勢により西軍が優位に立つと、東軍方の細川勝元は、西軍大名の本国を攪乱する戦術をとった[7]。美濃国では、かつての守護代で斎藤氏との政争に敗れた西濃の富島氏が同地に侵攻した[8]

妙椿は富島氏・長江氏を破った上、東軍が幕府と朝廷を擁している以上、敵の拠点になる恐れがあるとして幕府奉公衆の所領をはじめ、公家や寺社の荘園国衙領押領し、国内を固めた。妙椿の勢力は尾張伊勢近江飛騨まで広がり、成頼を意のままに動かし、更には西軍を左右するまでの存在になる[9][10]

文明5年(1474年)、成頼の子・土岐政康(九郎)が、富島光仲(常陸介)を従えて幕府に出仕した(『親元日記』)[11]。幕府は、美濃国の幕府奉公衆にも成頼の討伐を命じており、同年、小笠原家長(幕府奉公衆・安八郡中河御厨地頭)は、本家の信濃国守護・小笠原氏木曽氏らとともに東濃に侵攻し、小井城(恵那郡)や荻島城(土岐郡)を落とした[11][注 4]

文明9年(1477年)、成頼は足利義視義材父子を伴い美濃へ帰国した[4][12](義視・義材父子は、11年間、革手城に滞在している)。

文明12年(1480年)2月、妙椿が死去すると、その後継を巡って、斎藤利藤斎藤利国(持是院妙純)との間で争いが起こった(美濃文明の乱)[13]。利藤には幕府が後ろ盾となった一方、成頼は妙椿の遺言に沿い利国を支援した[14]。同年11月、利国が斎藤宗家を継ぐことになり、利藤は幕府の庇護下に置かれることになった[14]

長享元年(1487年)に長享・延徳の乱が発生して第9代将軍・足利義尚による六角高頼親征が始まると、次の標的は義視父子を擁している自分であると考えた成頼は突如挙兵して美濃山中に立て籠もって幕府軍を迎え撃つ準備を始めた。結果的に義尚の病死によって六角攻撃そのものに失敗し、美濃侵攻は起こらなかった[15]

明応3年(1494年)、成頼は四男の元頼を溺愛し、嫡男の政房を廃嫡して元頼に家督を継がせようと小守護代石丸利光に元頼を擁立させ、政房を推す妙純と戦うが、妙純を説き伏せ、西尾直教を追放する形で一時的に和解させる(船田合戦)。

明応4年(1495年)6月、成頼は再び妙純と戦うが敗れる。同年7月、斎藤方と戦い敗走する。同5年(1496年)秋、安国寺池田郡)で剃髪し、法名・宗安と名乗る[16]。政房に家督を譲り、自身は城田之城に隠棲した[17]

明応6年(1497年)4月3日、死去[1][18]。56歳[4]。国文宗安瑞龍寺と号した[1]瑞龍寺に葬られた[4](『寛政重修諸家譜』では、河手の正法寺に葬られたとしている[1])。


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