凡例土屋 昌恒
『天目山勝頼討死図』(歌川国綱画)。中央部分に「土屋惣蔵」として描かれている。
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕弘治2年(1556年)[1]
死没天正10年3月11日(1582年4月3日)
改名惣蔵(幼名)、昌恒
別名片手千人斬り(異名)、道節(法名)
戒名忠叟道節大禅門院
墓所長盛院(山梨県南アルプス市)
官位右衛門尉
主君武田信玄→武田勝頼
氏族金丸氏→土屋氏
父母父:金丸筑前守(虎義)、養父:土屋貞綱
兄弟昌直、昌続、昌詮、金丸定光、昌恒、
秋山親久
妻岡部元信の娘
子忠直、土屋嘉兵衛(重虎)
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土屋 昌恒(つちや まさつね)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。「片手千人斬り」の伝説と異名を持つ。
武田氏の家臣で譜代家老衆。武田二十四将の一人土屋昌続の実弟。今川旧臣・武田家海賊衆の土屋貞綱の養子。 武田氏の家臣で譜代家老衆の金丸筑前守の五男・惣蔵として甲斐国に生まれる。 筑前守の次男・昌続は武田信玄の側近として活躍し、永禄4年(1561年)9月の川中島の戦い以降に土屋氏の名跡を与えられ、?屋昌続となった[2]。 武勇に優れ、永禄11年の今川家との宇津房合戦に13歳で初陣し、敵方の岡部貞綱家臣の首を討ち取った。 永禄11年(1568年)の駿河侵攻後に武田信玄に降り、武田家の海賊衆となった岡部貞綱は、自分の家臣を討ち取った昌恒を養子にしたいと嘆願したという(岡部貞綱は後に信玄より土屋姓を与えられ、永禄13年(1570年)には土屋豊前守貞綱を名乗っている[3])。 これにより惣蔵は土屋貞綱の養子となり、?屋昌恒と名を改める。 昌恒は信玄・勝頼期の武田家に仕えた。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは兄の昌続・養父の貞綱がともに戦死し、昌続と定綱の双方に男子がいなかったため、昌恒は両土屋家を継承し、昌続と貞綱双方の遺臣を率いた[2]。 勝頼時代、昌恒は主に東海道方面・関東方面の戦いの多くに参加した。 天目山の崖道にある片手切りの史跡 天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐では、最後まで武田勝頼に従う[1]。『新編会津風土記』によれば、同年3月1日に最後となる龍朱印状を奉じている[4]。『甲乱記』によれば、勝頼一行が小山田信茂を頼り郡内へ逃れる最中に信茂の離反を知り、動揺する勝頼側近の跡部勝資に対してこれを非難したという[4]。 織田信長の武田攻めで、家臣の離反が相次ぐ中、土屋昌恒は最後まで勝頼に従い続けて忠義を全うした。勝頼たちは最終的に天目山へ向かったが、勝頼に付き従った者は、田野村に着く頃には昌恒を含めてわずか数十人だった。 『信長公記』『甲乱記』『甲陽軍鑑』によれば、天目山の戦いにて勝頼が自害を覚悟したとき、昌恒は勝頼が自害するまでの時間を稼ぐため、織田勢を相手に奮戦した。その際、狭い崖道で織田勢を迎え撃つため、片手で藤蔓をつかんで崖下へ転落しないようにし、片手で戦い続けたことから、後に「片手千人斬り」の異名をとった。享年27。 昌恒のために日川に突き落とされた千人もの兵が流した血は、川の水を赤く染めて、それは3日間も色を失わなかったという。人々はのちにこの川を「三日血川」と呼ぶようになり、後世まで片手千人斬りの伝説を語り伝えた。 この働きにより、勝頼は織田方に討ち取られることなく自刃した。『理慶尼記』によれば、勝頼の命で自害した夫人に介錯をしたともいわれる。 勝頼の辞世の句、「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}行衛(ゆくえ)の 西の山の端(は)」への返歌
生涯
生誕
初陣、岡部貞綱の養子へ
兄と父の討ち死、?屋氏継承
武田家最後の家臣
片手千人斬り
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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