土屋 圭市
土屋 圭市
生誕 (1956-01-30) 1956年1月30日(68歳)
日本 長野県小県郡東部町
職業レーシングドライバー
実業家
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土屋 圭市(つちや けいいち、1956年1月30日 - )は、日本の元レーシングドライバー。長野県小県郡東部町(現:東御市)出身。血液型B型。ドリフト走行を多用するそのドライビングスタイルから「ドリキン」(ドリフトキングの略)とも呼ばれる。レーサーとしての経験から、その類の作品に監修として業務することもある[1]。 長野県出身。埴生高等学校卒業。高橋国光の日産・スカイライン2000GT-Rに憧れて2000GTを購入。碓氷峠などといった峠道での「走り屋」として腕を磨き、1977年に富士フレッシュマンレースでレースデビュー。以降倉田自動車と坂東商会のサポートを受けながら日産・サニー、トヨタ・スターレットを乗り継ぎ、ツーリングカー(いわゆる「ハコ車」)でのレースを中心に活動する。 ヨコハマタイヤ専属ドライバーとして、1984年の富士フレッシュマンレースではADVANカラーのトヨタ・スプリンタートレノで開幕6連勝を果たしたことで、その名は一躍モータースポーツの世界に広まり、また当時、「ADVANには足を向けて寝られない」と言い残すほどであり、現役末期の2002年までヨコハマの開発ドライバーとして活動した。 その後全日本ツーリングカー選手権(グループA)には初年度の1985年はトヨタ・カローラレビン(AE86)でフル参戦。翌年からはトヨタ・カローラFXやホンダ・シビック、BMW・635CSi等でスポット的に出場した後、1989年からはBMW・M3やフォード・シエラのようなトップグループのマシンで再びシーズン通して参戦するようになった。 そして、1991年に日産・スカイラインGT-Rがプライベーターチームにも本格導入されるようになると、タイサンから高橋健二とのコンビで参戦。1992年からタイサンはチーム国光とのジョイントとなり、憧れのドライバーであった高橋国光との「ドリキンコンビ」を結成し、グループAラストイヤーとなった1993年に1勝を挙げた。この間、JSSにも並行して参戦。マツダのFC3S型RX-7を駆り、ドリフト走行を始めとするコーナリングで、現在以上の高速コースだった富士スピードウェイにて、ストレート性能に勝るHR31スカイラインに真っ向勝負を挑んだ。 1989年から1992年にはドライビングスキルの向上等を目指して全日本F3選手権に参戦。しかしツーリングカーほどマシンの荷重移動を活かせず、ましてやドリフトなど以ての外というフォーミュラカーではドライビングスタイルの違いに苦しんだこともあって目立った結果は残せず、最高位は1991年6月の筑波サーキットで記録した2位(参戦中唯一の表彰台)。1990年のインターF3リーグでは、若き日のミハエル・シューマッハやミカ・ハッキネンを見て、「どんなに努力してもフォーミュラではかなわない」と悟ったと言う。その一方でドリフト走行に近い状態で走れるレインコンディションには強さを発揮し、初年度の第4戦仙台ハイランドではポールポジションを獲得している(決勝レースは中止)。また、マカオグランプリやインターナショナルF3リーグにも参戦した。 その後、1994年から始まったJGTCとJTCCに参戦、どちらもADVANワークスのドライバーとして、JGTCではポルシェ・964やポルシェ・993、ダッジ・バイパー、トヨタ・スープラ、JTCCではホンダ・シビックフェリオやトヨタ・チェイサーなど、様々なマシンを操りながら参戦した。そして2000年から引退する2003年までホンダ・NSXに乗車した。 1994年からル・マン24時間レースに参戦して、1994年?1996年は高橋国光率いるチーム国光から飯田章と共にHONDA NSX GT2で参戦し、1995年にはGT2クラス優勝を果たした。1998年には片山右京、鈴木利男らと共にトヨタ・GT-One TS020で総合9位、翌年の1999年にも同チームとして参加し総合2位(クラス優勝)の成績を残した。このレースでナイトセッションのトップタイムを出し、夜やレインコンディションに強い峠の走り屋の片鱗を示した。 また、GT-Oneは電気系のトラブルで突然ヘッドライトが消えるというトラブルを抱えていたためほとんどのスティントを担当した。その後、2000年にチーム郷とテレビ朝日のジョイントでパノス・ロードスターを駆って参戦した際には、決勝レース中にコース紹介も務めたが、この年を以てル・マンから退いた。 1996年から1999年まで日本開催されたNASCARにも全て参戦[2]。川井一仁がエンジニアを務めたり、7度のNASCARカップ戦チャンピオンであるデイル・アーンハートとバトルを繰り広げるなど見所は多かったが、トップ10フィニッシュには至らなかった(1997年の11位が最高位)。 2000年にJGTCではARTAへと移籍。2003年からはブリヂストンの開発ドライバーにも抜擢。「BS(ブリヂストン)を履いて戦うということは、表彰台が約束されているということに他ならない」という言葉を残し、早速この年1勝、翌2001年はオーナードライバーだった鈴木亜久里の引退に伴い金石勝智にパートナーが代わるも、この年も1勝を挙げ、ランキング2位を獲得した。 しかしその後の成績低迷や、それまでの「ハコ」からフォーミュラカー仕様のパーツ構成へと変化するなど、高速化を続けるマシンに自らの体の限界を感じていたこともあり、2003年を以て引退した[3]。その後2017年にスーパー耐久にホンダ・シビック TCRで2戦した。 現役を退いた翌2004年よりARTAのチーム運営に携わり、2004年は全日本GT選手権(現・SUPER GT)GT500、GT300両クラスのチーム監督、2005年はGT300クラスのチーム監督を務めた。2006年は当初監督から外れ、J SPORTSのSUPER GT中継に解説者として登場していたが、セパン・インターナショナル・サーキットで行われた第4戦以降、再びARTAの監督代行を務めた。2007年以降はARTAのエグゼクティブ・アドバイザー職に就き、チーム運営やGT300の監督としての業務を担当している。 またARTAやホットバージョンなどでホンダとの関係を深めたこともあり、現在はModuloの開発ドライバーを務めており、同ブランドのエアロパーツのテスターとしても活躍中。 レーシングドライバーの他にも、1987年に創刊されたビデオマガジン『ベストモータリング』のキャスターを務めた後、自身のバックボーンである走り屋向けコンテンツを扱って1991年に派生した『ホットバージョン』のメインキャスターとして活動しており、引退後も現在まで続くライフワークとなっている。また現役当時からラジオパーソナリティとしての活動も行うなど活躍の場は広く、タレント活動をするレーシングドライバーの元祖とも言われている。 2006年9月に日本でロードショーされた映画『ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFT』では、同映画が自身が主宰するD1人気によるドリフトを題材にした映画の為、ドライバーおよびスーパーバイザーとして撮影に参加。監督の指示に従ってわざと下手なドリフトをやってのけるなどして、ドリフトシーンの迫力UPに大きく貢献した。劇中では、埠頭でのドリフト練習の音だけで、主人公の上達ぶりとハンドリングの是非をスキール音のみで聞き分ける「ドリフト仙人」的な釣り人役でカメオ出演もしている。
来歴
デビュー
グループA/JSS1993年の全日本ツーリングカー選手権参戦マシン
フォーミュラ3
JGTC/JTCC
ル・マン1995年のル・マン参戦マシン
NASCAR
引退
引退後
D1グランプリ
また自身が峠の走り屋出身であった経緯から全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)を設立し、現役時代からD1の審査委員長として活躍し、自らを「D1グランプリのバーニー・エクレストン」と称していた。しかしJAF公認競技化を推進しようとする彼に対して、興行面を重視しようとする運営体制との間に深い溝ができ、2010年12月9日、D1グランプリ運営会社であるD1コーポレーション取締役会にて稲田大二郎と共に取締役を辞任すると表明。併せて2011年度のD1グランプリ審査員を辞退した[4]。
ドリフトマッスル/ドリフトキングダム
その後2011年2月には新たなドリフトイベントの運営母体として「株式会社ドリフトエンタープライズ」を設立したことを発表[5]、「ホットバージョン」との連携により新イベントの展開を進める方針を明らかにし、D1グランプリの対抗カテゴリーとなる新シリーズ『ドリフトマッスル』(2018年からは『ドリフトキングダム
レース以外の活動
エピソード
レーシングスーツのカラーは緑。そのため、雑誌Optionやビデオオプションでは「(緑の)おじさん」と呼ばれることも多い。
当初は歌手を目指していたといわれ、業界ではなかなかの歌い手とされる。あみん等を輩出したヤマハ主催のヤマハポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)で自身のバンドでエントリーしたものの、他の出演者のレベルのあまりの高さに音楽の道を断念したという。
学生時代はサッカー部に所属。
青年時代は家業の金型工場やサラリーマン生活、夜は風俗店等などで働き、金型の配達でドライビングの基礎とも言える荷重移動を覚えた逸話がある。また、青年時代は碓氷峠に通いつめていた走り屋だった。
当時はハコスカの4ドアGTで峠を攻めていたが、「60km/h以上では曲がれない」と言われていたカーブを100km/hで曲がろうとしてガードレールを突き破り、車ごと谷に転落する事故で廃車にした。この事故を境に「モータースポーツにはルールと安全性が必要」と感じるようになり本格的にレーサーを目指すことになったと著書の中で語っている(参考文献参照)。
過去に峠アタックのビデオ(「ザ・峠」)を発売したが、後に暴走行為を煽るなどと問題になりビデオは発売禁止処分となり、JAFよりライセンスを剥奪される寸前の状態まで追い込まれた。しかし、稲田大二郎など、当時、彼を起用していたメディア関係者の取り成しによってライセンス剥奪は取り下げられている。この事を今も尚「稲田さんは恩人」として感謝している。
自著「PRiDE」にては、自身の暴走族時代のことや、峠での危険運転についてもつづっている。
自著「PRiDE」によれば、ル・マン24時間レースに出場した際、夜のレースで雨のコンディショニングで全く前方が見えずにアクセルを踏めなかった時、すでに亡くなっていた母親に「助けて」とすがったという。すると不思議と視界が開けてきたという。
「はえー!」や「(アクセルを)踏め!」が口癖である。またカーインプレッションの際にはまず足回りについてコメントした後にエンジン特性に対してコメントをする。また、初期のホットバージョンでは度々、読者のマイカーやショップのデモカーであるチューニングカーに対してピークパワーのみを追求することを良しとしない旨の発言を繰り返している。「エンジンに手を入れるとそれが壊れた時にチューニングショップがその修理にさらに金を要求する」ことへの嫌悪感が根底にあるとしている。
自身のテンションが上がった時は常に「ウッハッハッハッハ!!」と高笑いをする。
好物はカレーうどん。
2000年のル・マン24時間では、決勝でドライブしながらチームラジオで生解説するという離れ業をやってのけた。
人間関係
少年時代に当時トップドライバーだった高橋国光のレースを見て以来(ホンダ・ダックスで当時住んでいた長野県から富士スピードウェイのある静岡県まで自走していったと自伝「ドリキン伝説」に記述がある)、高橋を師と仰ぎ、息子の名前に「国光」と名づけるほど尊敬していると言われる。ドライバーになってからは全日本GT選手権では1994年から1996年までチーム国光に所属していたり、1995年のル・マン24時間レースのGT2では優勝をしている。引退セレモニーでの国光からの言葉で涙を流している。
28歳年下の妻がいる。バツ1で二度目の結婚となる[6]。
もうひとりの師匠とも言える稲田大二郎も尊敬しており、レース活動を引退するとき「俺には帰る場所があった。稲田大二郎っていう場所がね」とコメントを残している。稲田は引退セレモニーの最後に「お帰りなさい、土屋圭市」の幕を渡している。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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