土地調査事業
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土地調査事業(とちちょうさじぎょう)とは、日本統治時代の台湾日本統治時代の朝鮮で実施された土地調査及び土地測量事業のことである。
台湾での調査
背景

日本統治時代以前の台湾においては、一か所の土地に複数の地主がおり、一人の地主(大租戸)が政府が認定した「業主権」をもち、他の地主(小租戸)が実際の所有権を持ち自由に土地を処分できる一方、上位の地主(大租戸)に租税(大租)を納める必要があるという土地所有に関する複雑な法慣習があった。いわゆる「一田多主」の関係である。中国華南に由来するといわれる[1]。このような法慣習下では、土地の所有権関係ならびに不動産移転の方式は不明確であり、無断開墾者の土地(隠田)に対する権利関係も不明確であった。1885年(光緒11年)台湾巡撫に任ぜられた劉銘伝は、隠田を整理し、土地所有をめぐる権利関係を明確化することを企画した。彼はまず、小租戸をもって「業主」と認め、政府に対する納税義務を課すと共に、大租戸に対する大租については4割減とした。大租戸にとっては政府への納税義務は解かれると共に、大租収入はこれまでの6割となった。いわゆる「減四留六」である。しかし劉銘伝のこの改革は、税収増加を主目的としたため、人民にとって過酷に過ぎたため、人民の離反を招き、彼は改革半ばにして、台湾巡撫の職を辞職した[2]
台湾総督府による土地調査事業の概要

日本による台湾支配の確立の過程で、台湾総督府は、土地調査、臨時台湾戸口調査臨時台湾旧慣調査という三つの大きな調査事業を行っている。これは土地関係を把握し、その上にいる人間の属性を把握し、そしてその人が取り結ぶ社会関係を把握する三点セットの調査であって、総督府の以降の施策の基礎となった。そのうち土地調査の概要は以下のとおりである。1898年(明治31年)7月17日に公布された「台湾地籍規則及び土地調査規則」に基づき、台湾総督府臨時土地調査会は、地籍調査、三角測量、地形測量を実施した。これら事業を総称して土地調査事業という。調査は台北地区から始められ漸次中部、南部と進められた。この事業は、@その地区での調査開始宣言(告示)、A街庄長委員を総動員して「申告主義に基づく基礎台帳・書類の作成(各種帳簿作成)、B実地調査、C詳細地図の作成という順に進められた。街庄長というのは、地方行政事務を担当する下級官吏であり、多くは日本の占領統治に協力してとりたてられた者である。委員というのは申告の取りまとめに協力した地主総代にあたる。この街庄長委員の協力があって、抗日ゲリラ活動下での土地調査が可能となった[3]
大租権整理

この調査と同時に、総督府は、清朝以来の大租戸、小租戸、小作農の間の土地関係を整理し、1903年(明治36年)12月5日限りで大租戸の新設設定を禁止し大租権者には公債をもって補償金を交付した(大租権整理)。小租戸を真の土地所有者と確定し、納税の義務ありとした。そのため、「一田多主」という複雑な権利関係は単一化された。これらは、1904年(明治37年)5月20日公布の「大租権整理令」によるもので、総額378万円であらゆる大租権を統一して買い上げた。買い上げの方法は、11万円以下は現金で支払い、残りの367万円に対しては公債の方式で保証した。しかし、当時日露戦争の時期にあたっていたので、デマが飛び交い、大租戸たちが投げ売りを開始し、公債の価格が暴落した。総督府は、政府の威信と金融の安定を図るため、1905年(明治38年)より台湾銀行が、額面の7割で統一して買い取ることを決定した[4]
土地調査事業の効果

総督府にとっての土地調査の効果は以下の三点である。@地理地形を明らかにすることによる治安上の利点があった。A隠田をなくすという徴税上の利点があった。劉銘伝時代の測量をもとに全台湾で約36万甲と推計されていた耕地面積は、正確な地形図の作製の結果、実は約63万甲であることが判明した[5]。これと同時に、税率も引き上げたので、総督府の税収が増え、台湾総督府の早期の財政独立化を果たすことができた。(後掲表参照)B土地所有権が確定され土地売買の障害も解消されたので、台湾総督府は大量の公有地に的を絞って開発を進めることができるようになった。台湾経済全体の観点からみると、日本資本が台湾投資や企業設立にあたって取引の安全を与えられたので、資本の誘因に役だったことになる。かくて土地調査事業は「台湾資本主義化」に必要な前提であり基礎工事であったといえる。ただしこの「土地調査事業」は田畑についてのみであり、林野については、「林野調査」事業を待たなければならなかった[4][6]
台湾総督府の地租収入額と台湾総督府総収入の変化

総督府の地租収入額と総督府総収入額および割合の変化年度地租(円)台湾総督府歳入総計(円)総督府歳入に占める地租の割合(%)
1896752,0009,652,0008
1897835,00011,283,0008
1898782,00012,281,0006
1899841,00017,426,0005
1900912,00022,269,0004
1901869,00019,766,0005
1902897,00019,497,0004
1903922,00020,037,0005
19041,955,00022,333,0009
19052,975,00025,414,0007
19062,983,00030,692,00010
19073,006,00035,295,0009
19083,041,00037,005,0008
19093,078,00040,409,0008
19103,108,00055,338,0006

出典;台湾近現代史研究会編「台湾近現代史研究創刊号」(1978年)所収、森久男著「台湾総督府の糖業保護政策の展開」
朝鮮での調査

韓国併合後に行われた土地調査の背景、概要、効果は以下のとおりである[7][8]
背景

日韓保護条約以後、朝鮮において日本の大資本が土地投資を始めた。地価が日本の10分の1から30分の1であったために小作料をとることで大きな利益を得ることができたからであった。また、朝鮮総督府は、日本人農業移民を積極的に奨励した。日本政府や自治体から朝鮮における営農に対し補助金が与えられた。移民してきた農民は自作経営を目的とする者と小作経営を目的とする者に区分された。続いて、土地所有の農業移民と朝鮮人に対する小作料徴収を目的として日本の各種農事会社が進出してくるようになった。1904年創立の韓国興業株式会社、1907年創立の日韓林業株式会社、1908年創立の韓国興農、韓国実業と続き、同年12月には、資本金1000万円で東洋拓殖株式会社が創立された。このような日本人・日本資本による土地所有権の取得は、以下のようになされていた。本来、土地の所有権は土地台帳や土地文記に明記されるが、この記録は20年ごとに施行される量田によって変更されることになっていた。しかし実際は、この量田が7、80年あるいは100年たっても実施されない状態が続いたので、売買契約書によって所有権の変更が認められた。そのため日本人が土地を所有しようとすれば、この売買契約書さえ手に入れればよかったのである。韓末の朝鮮政府は税源把握と土地所有権を調査確認することで外国人の土地所有を防ぐという目的で、1898年から1904年にかけて量田を行った。


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