土佐藩
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土佐藩の居城・高知城

土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様。明治初年の正式名称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城高知市)にあった。大広間国持大名。一貫して山内家が支配した。.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}土佐藩
外様
24万2千石 土佐藩の位置山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』
藩史

土佐藩の領域は戦国時代末期には長宗我部家が統治していたが、長宗我部盛親慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に与して改易となった。この合戦において徳川家に味方した遠江掛川城主・山内一豊が、新たに土佐国20万2600石を与えられた。以降、明治時代初頭まで山内家が治めた。

当初、「一領具足」と呼ばれた半農半兵の長宗我部家旧臣が、山内氏に馴染まずに反乱を繰り返したため、山内家は藩内の要衝に重臣を配して反乱に備えた。中村山内康豊(2万石)を始め、佐川深尾重良(1万石)、宿毛山内可氏(7000石)、窪川山内一吉(5000石)、本山山内一照(1300石)、安芸五藤為重(1100石)を配している。

当初、一豊は長宗我部家(浦戸藩)の旧城である浦戸城に入城したが、城下町を開くには狭かったため、現在の高知市中心部に高知城と城下町の建設を行った。藩政が確立したのは2代山内忠義の時代で、忠義は野中兼山を登用して新田開発など殖産興業に努めたが、兼山の強引な施策は政敵の恨みを買って失脚する。

藩財政は江戸時代中期頃までは比較的安定的に推移したが、宝暦期(1751年 - 1764年)以降、一揆、農民の他領への逃散など藩政には動揺が見られた。9代・山内豊雍による質素倹約を基本とする藩政改革(天明の改革)が行われ、藩政はやや立ち直った。さらに13代・山内豊熈は「おこぜ組」と呼ばれる馬渕嘉平を中心とする改革派を起用して、藩政改革に乗り出したが藩閥派の敵対により失敗した。

幕末には、15代豊信(容堂)が吉田東洋を起用して改革を断行した。東洋は保守派門閥や郷士の反感を買い、武市瑞山を中心とした土佐勤王党によって暗殺された。後に勤王党は実権を回復した容堂(豊信)の報復を受け、瑞山の切腹や党員が処刑されるなど弾圧解散された。なお、上士勤王派から板垣退助や、東洋の門下より後藤象二郎岩崎弥太郎明治時代を代表する人物を、また、郷士である坂本龍馬中岡慎太郎など優れた人材が輩出された。坂本や後藤を通じて容堂から15代将軍徳川慶喜へ献策された大政奉還により、江戸幕府の歴史が閉じられた。土佐藩は薩長土肥の一角をなし、時代転換の大きな役割を演じた。

明治4年(1871年)、廃藩置県により高知県となった。山内氏は明治17年(1884年)の華族令により侯爵に列せられた。
土佐藩における郷士制度

山内家の土佐入封時、掛川城主時代までの家臣(板垣退助らの家系)や土佐入封の翌年に大坂牢人を取り立てたもの(後藤象二郎らの家系)を上士とし、土佐にいた郎党・地侍を郷士としたと説明されることがあるが、実際には有能な人材であれば、長宗我部旧臣であっても郷士ではなく、最初から上士として召抱えられた場合が多数存在する(以下に実例を挙げる)。また、郷士であっても上士待遇の「白札郷士」とされた場合もあり、郷士から「白札郷士」に出世できる制度も存在し、司馬遼太郎の歴史小説などにしばしば見られるような「旧長曽我部家臣は、郷士にされ差別的待遇を受けた」と言う類いの短絡な説や「相撲大会と称して種崎に郷士を集め虐殺した」等の話は史実とは異なる。武市半平太は祖父の代より白札郷士であったし、坂本龍馬の大叔父の宮地家なども「庄屋郷士→白札郷士(上士)」と家格が上がった家である。幕末期には、家老格、中老格、馬廻格、小姓格、留守居格を以て上士を構成した。

郷士は、基本的には在郷武士であり、土佐藩においては下士の上位に位置づけられていた。関ヶ原の戦い以前の旧領主である、長宗我部家遺臣のうち、半農半兵であった一領具足の系譜を引く者が多く、慶長18年(1613年)香美郡山田村の開発で取り立てられた慶長郷士がこの制度の端緒となり、その後、新田等の開発を行うたびに取り立てられてきた。これらは、長宗我部遺臣の不満を解消し、軍事要員として土佐藩の正式な体制に組み込むとともに、新田開発による増収を狙ったものであった(江戸幕府は、大名統制策として様々な普請を外様大名を中心に請け負わせており、また、地理的条件から土佐藩の江戸参勤に掛かる費用も莫大であったことから、土佐藩では早くから増収策に熱心であった)。郷士1人当たりの開発許可面積は、だいたい3町ほどであった。なお、長宗我部家遺臣のうち、山内家への仕官に応じた名家は土佐入封前からの家臣同様、上士に属した。

時代が進み、江戸時代中期には商品経済が農村部まで浸透し始める。すると、困窮苦からか、生活のために郷士の身分を譲渡するようになった。当初は武士身分の者への譲渡(このケースは耕作地の売却が主)であったが、次第に、豪農・豪商が郷士株を買って、郷士となる者が現れている(郷士の多様化)。

元禄期には郷士も公役に就くことが出来るようになり、下級役人として活躍する者も出てきた。幕末には郷士総数は800人を数えた。うち、370人が大組と呼ばれ、おのおのが家老に属しており、御預郷士と呼ばれた。残り430人が小組と呼ばれ6隊を構成し、駆付郷士として、非常時に規定の場所で海防に従事していた。

多くの郷士は農村や山間部に居住していたが、上士居住地である郭中以外の上町・下町に居住する者もいたようである(→坂本龍馬の家が一例である)。

上士に属する板垣退助と後藤象二郎は竹馬の友で、郷士に対し寛大だった人物として知られる佐々木高行は、幕末の土佐三伯と呼ばれた。
長宗我部旧臣系の上士


北川氏 - 北川筑前、同弟・北川玄蕃の子孫

吉田氏 - 吉田東洋吉田正春

武市氏 - 武市正恒武市瑞山

宮地氏 - 宮地信貞坂本龍馬の大叔父)、宮地茂春

大黒氏 - 大黒清勝無双直伝英信流居合宗家)

池田氏林氏 - 林政誠池田政承無双直伝英信流居合宗家)

谷氏 - 谷秦山谷干城

本山氏 - 本山茂任

明神氏 - 明神善秀

鹿持氏 - 鹿持雅澄

小谷氏 - 小谷正臣(板垣退助の妻の父)

松田氏

土佐藩の石高

16世紀末、太閤検地の際に長宗我部家が届け出た土佐国の石高は9万8000石に過ぎなかった。山内一豊は土佐入国後に再度算定し、慶長10年(1605年)に20万2600石余りと届け出た。

元和元年(1615年)、阿波徳島藩淡路国の加増によって表高が17万石余から25万7000石になると、土佐藩は対抗したかのように「25万7000余石」を申告する。


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