土佐光起
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土佐光成筆土佐光起像(京都国立博物館所蔵)源氏物語絵巻、二十帖『朝顔』、バーク・コレクション

土佐 光起(とさ みつおき、元和3年10月23日1617年11月21日)-元禄4年9月25日1691年11月14日[1])は、江戸時代土佐派を代表する絵師和泉国出身。父は土佐光則。本姓は藤原、幼名は藤満丸。住吉如慶は父の門人(叔父説あり)。子は土佐光成土佐光親
略伝源氏物語絵巻、四十二帖『匂宮』、バーク・コレクション源氏物語絵巻、五帖『若紫』、バーク・コレクション

寛永11年(1634年)18歳で父に従い京都に移り、承応3年(1654年)38歳で従五位下左近衛将監に叙任されるが、この時に永禄12年(1569年)の土佐光元戦死以来失われた朝廷の絵所預職に85年ぶりに復帰したと考えられる。この職を取り戻すのは土佐家の悲願であり、光起を「土佐家中興の祖」と呼ぶのもこれ故である。同年からの承応度京都御所造営では如慶と共に参加し、襖絵や杉戸絵を制作した。後水尾天皇の覚えがめでたく、光起は改めて自邸に絵所の称号を勅許され、「勅許画院」の印象を用いるのを許可された。のちの延宝9年(1681年)息子・光成に絵所預の職を譲り、5月29日に法橋となり剃髪、法名を常昭とし、春可軒と号す。貞享2年(1685年)には法眼となった。元禄4年(1691年)、京都で没。享年75。法名は寿光院霊誉常照居士。墓所は知恩寺。容貌は祖父・土佐光吉に似ていたといい、子の光成による肖像画が残る(京都国立博物館蔵)。

大和絵の主流だった土佐派にあきたらず、ライバルの狩野派宋元画を学び、従来の温雅なやまと絵に克明な写生描法を取り入れ、江戸時代の土佐派様式を確立した。特に南宋院体画家李安忠の「鶉図」(国宝。現在は根津美術館蔵)を父譲りの細密描法を用いてしばしば描き、後の土佐派の絵師たちに描き継がれている。江戸中期の国学者、有職故実家である橋本経亮は著書『梅窓筆記』(享和元年(1801年))で、光起の鶉の絵に猫が飛びかかったという伝承を記している。また画題の面でも、風俗画や草木図などそれまで土佐派が描かなかった題材を取り上げ、清新な画風を作り出し、土佐派の再興に成功した。
『本朝画法大伝』

死の前年にあたる元禄3年(1690年)に『本朝画法大伝』を書き残す。この中で光起は、この本はそれまで口伝であった土佐家伝来の秘伝を誤って伝えられるのを恐れて著したが、決して人に渡してはならないと堅く戒めている。内容は中国の画論にしばしば見かける、画の六法、三品、十二忌といった説明から、様々な技法、筆や顔料の事などきわめて実践的な記述が多い。光起は土佐派の特質を「異国(中国)の画は文の如く、本朝(日本)の画はの如し」と評している。また、狩野派を鋭く批判する声が聞かれる一方で、粉本主義が明白に打ち出されており、同時代の狩野派と類似した体質が指摘できる。
代表作

作品名技法形状・員数寸法(縦x横cm)落款印章年代所有者指定備考
石山寺縁起絵巻模本4巻1655年(明暦元年)頃石山寺
十二ヶ月歌意図巻絹本著色2巻上巻 29.0x665.0
下巻 29.0x663.51664-68年(寛文4-8年)頃東京国立博物館
山崎闇斎両親象絹本著色1幅49.4x76.8「土佐光信五代孫左近衛将監光起圖」「藤原」朱文方印1670年2月14日(寛文9年12月24日)個人山崎闇斎賛[注釈 1]
北条氏長像紙本著色1幅127.2x56.41670年(寛文10年)デトロイト美術館琢玄宗璋賛
北条五代画像1670年(寛文10年)頃早雲寺箱根町指定文化財琢玄宗璋賛[3]
束帯天神図絹本著色1幅「土佐将監光起筆」1673年(寛文13年)常盤山文庫高泉性?[4]
徒然草絵巻絹本著色1巻26.3x510.31675年(延宝3年12月)個人[注釈 2]


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