土人
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土人(どじん)とは、律令制度において「本貫地に居住している人[1]」、「其の地に生まれ住む人。土地の人[2]」、「原住民、現地人[3][4]」。

現代では「原始的生活をする、土着の人種[5]」、「土人形・土偶」、「未開地域の原始的な生活をしている住民を侮蔑していった語」[6]を第2義とする辞書もあり[6][7][8]、土民(どみん)とも呼ばれる。
変遷
古代

語源は律令制度の京以外の「本貫地に居住している人(土人)[1]」(京貫は京戸)、土民。律令制度下、公民は本貫地の戸籍計帳へ登録され、浮浪逃亡五保過所で規制され拘束され納税していた[9]

もとは、その地域の土地の人。渤海使遣渤海使で日本との交流も盛んであった渤海国では、靺鞨族の邑の有力な土人の酋長を都督・刺史・首領を任命して地方支配を維持したと考えられている(羈縻政策[10]

魏書』『後漢書』や713年(和銅6年)の『風土記』『続日本紀』にも用例がある。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}隋開皇初、相率遣使貢獻。文帝詔其使曰:「朕聞彼土人勇、今來實副朕懷。視爾等如子、爾宜敬朕如父。」—勿吉伝、『魏書』猩猩在山谷中,行無常路,百數爲羣。土人以酒若糟設於路—『後漢書』、[11]後以天之眞宗豊祖父天皇二年。大祚榮始建渤海國。和銅六年。受唐冊立其國。延袤二千里。無州縣館驛。處々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者。靺鞨多。土人少。皆以土人爲村長。大村曰都督。次曰刺史。其下百姓。皆曰首領 。—菅原道真 編、『類聚国史』又河内國諸家荘園.往往而在.土人數少.京戸過多.伏望不論京戸土人.營田一町者.出擧正税卅束.許之.—寛平五年五月十七日付官符、『類聚三代格[12]不論土人浪人及王臣佃使—_、『続日本紀
近世

近世では1829年(文政12年)の『新編武蔵風土記稿』等に記載がある。異魚不知其名、我郷南海所捕、鈴木春山持贈、形似魴魚無円暈、或?魚一種歟、土人云味甘平無毒 庚子十一月朔六日—渡辺崋山、 ⇒異魚図(天保年間)[13]金禧寺といふ。土人口稱して芭蕉菴と呼。—与謝蕪村、洛東芭蕉菴再興記 [14]
近現代

明治末以降には、北海道樺太などの開拓に伴いアイヌ民族を公式に「旧土人」と称した。1899年(明治32年)(北海道旧土人保護法)(「旧土人」は土人の派生語として「旧の土人」と解釈する場合のほか、「旧土の人」と解釈する意見もある)[15]。新札幌市史によると元々の住民アイヌ民族を旧土人、開拓者を新土人と概念上区分し、旧土人が官庁用語として残ったとある[注 1]

江戸時代の民も移転の自由職の選択の自由は制限され働く場所も一所懸命の土地とされていた。幕末?開国以降は日本国内と同じく植民地でも現地の民を土人と呼称したが、外地では日本人と支配階層であった欧米列強側の市民を土人と呼ぶことはなく、次第に植民地の有色人種を意味するようになった。列強各国と共に行った植民地政策やそれ以前に繰り広げられた奴隷貿易の影響により植民地側を経済的に困窮させ激しく疲弊させながら、その窮状を植民地側の未開性や文明の遅れによるものと錯誤したため未開の意や野蛮[17]という偏見が加わった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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