土井淳
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土井 淳JPアセット証券 技術顧問

基本情報
国籍 日本
出身地岡山県岡山市
生年月日 (1933-06-10) 1933年6月10日(90歳)
身長
体重170 cm
74 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手
プロ入り1956年
初出場1956年3月21日
最終出場1968年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


岡山県立岡山東高等学校

明治大学

大洋ホエールズ (1956 - 1968)

監督・コーチ歴


大洋ホエールズ
横浜大洋ホエールズ (1960 - 1973, 1978 - 1981)

阪神タイガース (1985 - 1987)

JPアセット証券

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土井 淳(どい きよし、1933年6月10日 - )は、岡山県岡山市出身の元プロ野球選手捕手)・コーチ監督解説者
経歴

1949年4月岡山東商業高校へ入学するが、同年8月31日に岡山産業高校と合併して岡山東高校となり、同学年の秋山登と出会う。それまで遊撃手であったが、2年次の1950年から捕手に転向。その頃から、明治大学を経て、プロの大洋ホエールズ時代まで約18年間に渡って秋山とバッテリーを組み続けた。転向して1年が経過した3年次の1951年夏の甲子園に出場。1回戦で中西太率いる高松一高と対戦したが、その中西にランニング本塁打を打たれるなど3-12で敗退。

高校卒業後の1952年には住友金属から内定をもらっていたが、「東京六大学に是非行け」という周囲の勧めで、推薦で早稲田大学を受験することになった。後に大洋球団で社長を務める森茂雄監督からも了解を貰ったが、進学適性検査を受けていなかったため受験することが出来ず、検査の必要がない明治大学商学部商学科に入学。2年先輩には同郷の岡田悦哉がおり、上京して右も左も分からず、秋山と2人で喋るしかなかった土井が岡山弁で話していたところ、周囲には喧嘩していると思われたため、岡田に「岡山弁で話すな」と注意された[1]。土井は「お前、本当の中華料理、食ったことないだろう」と銀座の高級店に連れて行かれたこともあったが、小遣いが殆ど無かった岡田は中華まんしか注文しなかった。土井は後に「おかげで、私は中華料理といったら、中華まんしか知りませんでした。でも、小遣いもほとんどなかったでしょうにね」と振り返っている[1]東京六大学リーグでは2年次の1953年秋季、3年次の1954年春季、4年次の1955年秋季と3度の優勝を経験し、3年秋・4年春に連続してベストナイン(捕手)を獲得。4年次の12月にはマニラで開かれたアジア大会に出場し、見事に6勝1分で優勝する。この時のチームは、同じ明大の秋山・近藤和彦立教長嶋茂雄ら、そうそうたるメンバーが揃い、16人中14人がプロに進んでいる。また、島岡吉郎監督に「土井と高田繁星野仙一だけは殴っていない」と言わしめた島岡門下の優等生であった。

大学卒業後の1956年に大洋ホエールズへ入団。プロ入り時には後に大洋を指揮する西鉄三原脩監督が「土井をどうしても獲ってくれ」と言っていたが、土井は秋山と「せっかくここまで縁があってきたのだから、プロもバッテリーで挑戦しよう」と決めていた。明大3年時には巨人との約束ができていたが、秋山の腰の状態を気にして白紙に戻される。その空白を突いて大洋が秋山、土井を含む5人を明大から獲得。1年目から正捕手として活躍し、オールスターゲームにも1962年まで7年連続出場。1958年10月3日にフロントの平山菊二から「西鉄の三原監督に会って欲しい」といわれ、土井は日本シリーズ対策のために巨人のデータを聞き出そうとしているのではと思っていたが、神楽坂料亭で待っていた三原は「僕は大洋の森茂雄代表から監督就任の要請を受けたんだ。それで僕はその要請を受けようと思っている。ついては土井君に大洋のチーム事情や、選手一人ひとりの特徴などを教えてもらいたいんだ」と言った。2日前に奇跡の大逆転で西鉄をV3に導いたばかりの三原が大洋監督に就任するという事態に土井は驚きながらもベテランが多いチーム編成や、勝利への執着のない選手の意識などを三原に語った。このとき土井はまだ25歳という若さであったにもかかわらず三原は熱心に耳を傾けていたという。マスコミが三原大洋監督をすっぱ抜いたため実際に三原が監督に就任するのは1年後となったが、1960年には三原から選手兼任コーチに指名された。好リードで投手陣を引っ張ってチーム防御率は12球団1位の2.32を記録し、正捕手として球団史上初のリーグ優勝・日本一に貢献。優勝を目前した9月26日から行われた2位巨人との3連戦初戦(川崎)では1対1で迎えた8回裏に1死3塁で打席に入ると、自らスクイズのサインを出して決勝点を上げるなど三原から絶大な信頼を得た。

三原曰く「秋山以外は相手を抑える凄みのある投手はいなかったが、小粒なりに整備されていた」投手陣のエッセンスをグラウンドに撒き散らさせ、相手の欠点を頭に叩き込んでいたことにより、大洋投手陣の癖と、相手打者との対戦成績を把握して弱点を攻め抜いた[2]。三原とはよく話し合い、三原から伝えられた三段階の予測を覚え、様々な局面でも慌てず、騒がず、冷静に処理[2]。三原の指示が土井の頭脳の中に移植してあったほどであり[2]、三原と土井だけのサインもあり、味方に知られたくない情報を二人だけで交わしていた。

ユニフォームのWの頭文字に彼の右手が触れた時は「そろそろ球威減退気味」というシグナルになり、帽子の頭頂部に触れると「コントロール悪い」という調子であり、三原は土井のシグナルと自身の目と重複させて、審判の下へ投手交代を告げに行った[3]

大毎オリオンズとの日本シリーズでは、10月11日の第1戦(川崎)で先発投手の鈴木隆が初回から四球とヒットで無死一・二塁のピンチを招き、3番・榎本喜八を三振に打ち取って一死一・二塁となったところで、エース・秋山に投手交代。マウンドに登った秋山の投球練習中に、二塁走者の柳田利夫が三塁コーチャーズボックスにいる西本幸雄監督のところに行った。これにピンと来た土井は秋山に「いつもお前は1回しかランナーを見ないが、今度は2回やってみろ」と言い、4番・山内和弘が打席に入ると、秋山は言われたとおりに投球前に一度二塁を見た後にもう一度二塁を見た。すると柳田が盗塁を敢行しており、柳田は二・三塁間でアウトになって大洋はピンチを切り抜けた。このプレーでシリーズの流れを掴んだ大洋は4連勝で日本一に輝くことになるが、10月15日の第4戦(後楽園)で最後の打者が三振した際、土井は嬉しくてウイニングボールをスタンドへ放り投げ、そのまま行方不明にしてしまっている[4]8月11日大阪戦(川崎)で島田源太郎完全試合を達成した際もウイニングボールを同様に行方不明にしてしまっている[5]。打率.212ながら同年にはベストナイン(捕手)も受賞。打撃は非力で生涯打率.215に過ぎないが、強肩とインサイドワークなど守備力が高く評価され、三原からは「グラウンドの指揮官」と呼ばれた。1962年には島野雅亘に定位置を奪われるが、1963年には再び奪い返す。しかし1964年からは伊藤勲に定位置を奪われる。1968年には4月6日の巨人との開幕戦(後楽園)で、5回の無死満塁で打席に入ると金田正一の真ん中高めのストレートを弾き返し、史上初の開幕戦グランドスラムを達成したが、同年の本塁打はその一本に留まり、現役を引退。


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