土井正博
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土井 正博埼玉西武一軍ヘッド兼打撃コーチ時代
(2012年9月30日、西武ドームにて)
基本情報
国籍 日本
出身地大阪府柏原市
生年月日 (1943-12-08) 1943年12月8日(80歳)
身長
体重181 cm
81 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手一塁手
プロ入り1961年
初出場1962年4月8日
最終出場1981年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


大鉄高等学校(中退)

近鉄バファローズ (1961 - 1974)

太平洋クラブライオンズ
クラウンライターライオンズ
西武ライオンズ
(1975 - 1981)

コーチ歴


西武ライオンズ (1985 - 1989)

三星ライオンズ (1992)

西武ライオンズ
埼玉西武ライオンズ (1996 - 1999, 2004 - 2007, 2011 - 2012)

中日ドラゴンズ (2017 - 2018)

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土井 正博(どい まさひろ、1943年12月8日 - )は、大阪府柏原市出身(大阪市港区生まれ)の元プロ野球選手外野手一塁手)・コーチ解説者評論家
経歴
アマチュア時代

幼少の頃に父親が戦死。産まれは大阪市港区だが、終戦間もなく、母と姉と共に藤井寺球場近くの柏原市に転居した。実家は本屋を営んでいたというが、土井が本塁打王を争っていた年に近隣の貰い火で焼失した(その事実は、シーズン後まで伏せられていたという)。大鉄高校では1年次の1959年から打線の中心として活躍するが、当時の大鉄高は、土井の1年上に伊藤幸男小野坂清、同期に中井悦雄と後にプロに進む3人が強力投手陣を形成していた。同年の秋季近畿大会府予選準決勝で、八尾高校久野剛司から本塁打を放ち注目を浴びる。近畿大会でも準決勝に進み、海南高校木原義隆に抑えられ敗退するが、2年次の1960年には春の選抜への出場権を得る。甲子園では1回戦で東邦高校に逆転負けを喫した[1]

同校の野球部は藤井寺球場で練習を行うことがあり、そこで当時近鉄バファローのスカウトを務めていた根本陸夫の誘いを受け、1961年に高校を2年で中退して近鉄に入団した。母子家庭で、親孝行を考えてのプロ入りであった。

当時の近鉄スカウト荒井健は「土井の後には有力者が付いていてそっちの方にだいぶ金がかかったんです。当時としては約500万円かかっていますから相当な金額です。それで大鉄高を2年で辞めさせたんです」と証言している[2]
近鉄時代

近鉄は1958年から1962年まで5年連続でパシフィック・リーグ(パ・リーグ)最下位に低迷しており、特に土井が入団した1961年には日本プロ野球 (NPB) 記録となるシーズン103敗を喫するなど、「パ・リーグのお荷物」とすら言われる有様だった。土井は「一軍の監督だった千葉茂さんは、コツコツ当てるタイプの打者を好むんですよ。「ピストル打線」なんて言われていて、右方向に流して打つことが求められた。でも僕はホームランを打てる打者だと思っていたから、強く振ることにこだわっていたんです。そうしたら、シーズンが終わった後に球団から解雇を通告されました。」[3]と述べている。同年オフに千葉が監督を退任し、後任として別当薫が新監督に就任。同時にチーム名も「近鉄バファローズ」に改称されたが、別当はプロ入り1年目にして整理対象となっていた土井の長距離打者としての才能を見出し、翌1962年オープン戦で4番打者に起用[4][5]。「18歳の4番打者」と売り出されたが[4]、レギュラーシーズンでは4番打者として起用されることはなかった[6]。同年は強肩俊足を活かし、中堅手として129試合に出場。チーム最多の16盗塁を記録するが、打撃面では今一つ伸び悩み打率.231、5本塁打、43打点にとどまった[4]。土井自身も重圧に耐えかねて出場メンバーから外すように願い出たこともあったが、別当は「打てないお前より、使っている俺のほうが苦しい。近鉄が強くなるためにはお前の力が必要になる。だから、数年先のためにお前は外さない」と拒否し、起用を続けた[7][8]1963年には左翼手に回り全150試合に出場。打率.276(リーグ12位)と成長がみられ、26試合に4番打者として起用される。外野守備でも20補殺とチームに貢献した。

1964年に3割30本100打点には僅かに届かなかったものの、リーグ最多安打を記録し、野村克也南海ホークス)に次ぐ98打点を記録するなどさらに成長する。その後も近鉄の中心打者として長らく活躍し、これらの経緯から、土井は別当を師匠と仰ぎ、別当は結婚式の際には父親のいない土井の父親役を務め、仲人は根本陸夫夫妻[3]1964年の28本塁打以降6年連続で20本塁打を記録し、オールスターでは1967年1968年の2年連続で・パ両リーグ合わせて、ファン投票1位になる[3]1967年オールスターゲームでは第1戦で2本塁打を放ち6打点、第2戦で3点本塁打の長池徳二、第3戦で満塁本塁打の大杉勝男と共にMVPを獲得。新時代の「実力のパ・リーグ」を見せつけた。しかし同年は打率.323を記録するものの張本勲に次ぐ2位、93打点も野村に次ぐ2位に終わりタイトルを逃す。また1967年から2年連続でベストナインに選出される。

1970年には賭博容疑(黒い霧事件)で書類送検され1か月の出場停止処分を受ける。

1971年は打率.309で大杉と1本差の2位の40本塁打、113打点と自己最高の成績を残した。なお、近鉄在籍時代に記録した通算打点960は近鉄球団最多記録となった[9]
太平洋・クラウン・西武時代

1974年オフにはに衰えがあり外野守備に不安があったため、太平洋クラブライオンズ柳田豊芝池博明とのトレードで移籍。当初、太平洋は柳田、東尾修阪急ブレーブス長池徳二との2対1のトレードで纏まりかけていたが、長池が拒否した為、上記のトレードとなった。

1975年には一塁手を兼ね、34本塁打を放ち本塁打王の初タイトルを獲得した。このトレードに関して、当時の近鉄監督であった西本幸雄2003年のインタビューにて、トレードを決めた1週間後にパ・リーグが翌年からの指名打者制導入を決定したため「土井は守らなくてよくなった。


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