この項目では、奈良市にある圓照寺について説明しています。その他の用法については「圓照寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}圓照寺(えんしょうじ)
参道と山門、拝観は不可
所在地奈良県奈良市山町1312
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度38分37.3秒 東経135度50分44.1秒 / 北緯34.643694度 東経135.845583度 / 34.643694; 135.845583 (圓照寺)
圓照寺(えんしょうじ、円照寺)は、奈良市山町にある臨済宗妙心寺派の尼寺。山号は普門山(ふもんざん)。文智女王が創立。斑鳩の中宮寺、佐保路の法華寺と共に大和三門跡と呼ばれる門跡寺院である。華道の「山村御流」の家元でもある[1]。別名、山村御殿[1](山村御所)。
三島由紀夫の小説『豊饒の海』に再三登場する「月修寺」は、圓照寺をモデルに描かれている[2]。非公開寺院のため拝観は不可となっているが[1]、2010年11月15日から19日までの間に平城遷都1300年記念事業の一環として特別拝観が実施され、抽選で選ばれた1000人を対象に本堂と奥御殿庭園、本尊の木造如意輪観音像が公開された[3]。 後水尾天皇の第1皇女であった文智女王(幼名・梅宮)は、寛永17年(1640年)、22歳で一糸文守(仏頂国師)を師として出家し、大通文智尼となった。大通文智は翌寛永18年(1641年)、京都の修学院の地に草庵を結んだ。これが圓照寺の始まりである[4]。 明暦元年(1655年)、後水尾による修学院の山荘(修学院離宮)の造営にともなって圓照寺は移転を迫られ、翌明暦2年(1656年)、継母である中宮東福門院(徳川秀忠の娘)の助力により、大和国添上郡八嶋の地(奈良市八島町)に移り、八嶋御所と称した。さらに、東福門院の申請により、幕府から200石(のちに300石に加増)の寄進を得て、寛文9年(1669年)、八嶋の近くの山村(奈良市山町)の現在地に再度移転した。以後も歴代住持として皇女が入寺し、山村御所と呼ばれた[4]。
歴史
歴代門跡
文智 深如海院大通大師 後水尾天皇皇女
文喜 菩提心院大歓尼大禅師 霊元天皇皇女
文応 清浄院大寂尼大禅師 霊元天皇皇女
文亨
文乗 常応院大機尼大禅尼 光格天皇養子(有栖川宮織仁親王の第3王女)
文秀 最勝心院大知尼大禅尼 孝明天皇養子(伏見宮邦家親王第7王女)
宜絢 曹渓院禅庭尼大禅師
寿泉 浄光院仙峯尼大禅師
文孝 廣厳心院秀山尼大禅師 近衛忠煕(旧公爵)養女(清岡長延 娘)
文絲 大慈心院靜山尼大禅師 山本実庸(旧子爵)女 靜山