園田 高弘
生誕 (1928-09-17) 1928年9月17日
出身地 日本、東京府東京市
死没 (2004-10-07) 2004年10月7日(76歳没)
日本東京都目黒区
ジャンルクラシック
職業ピアニスト
園田 高弘(そのだ たかひろ、1928年9月17日 - 2004年10月7日)は、日本のクラシック音楽のピアニスト。目次 戦後の日本の音楽界を演奏者・教育者としてリードしたクラシック音楽のピアニスト。レパートリーと録音・演奏回数ともに余人の及ばない域に達しており、没年の翌年にも演奏会のスケジュールが入っていた[1][2][3]。 1928年、東京市中野生まれ。園田の幼少期に急逝した父・清秀は、フランスでロベール・カサドシュに学んだピアニストであった。その方針により音楽の英才教育を受ける。1936年、父が他界。1939年からユダヤ系ロシア人ピアニストレオ・シロタの個人指導を受ける。本郷区千駄木尋常小学校[4]を経て、軍事教練の無かった旧制豊山中学[5]4年修了後、最年少で東京音楽学校[6]に入学する。戦時中は軍に聴力測定のため極秘で研究を要請された[7]。 1948年、東京音楽学校を卒業後、ソリストとして活動を開始する。ショパン作品の連続演奏会や、ハチャトゥリアンのピアノ協奏曲 (ハチャトゥリアン)やガーシュウィンも手掛け、プロコフィエフのピアノソナタ第7番の日本初演は修士演奏で行った。 1952年にフランスへ渡り、ジュネーヴ国際音楽コンクールに出場するも落選した。その後パリで田中希代子の紹介によりマルグリット・ロンに入門する。同門のフリードリヒ・グルダ、サンソン・フランソワとも親交を結ぶ。またパリではヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団およびウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏に接して深い感銘を受ける。1953年、帰国、パリ時代の留学生仲間である春子夫人と結婚する。 1954年、NHK交響楽団客演指揮者として来日したヘルベルト・フォン・カラヤンとベートーヴェンの協奏曲を共演する。カラヤンの熱心な説得により、1957年、カラヤンの推薦状を携えてベルリンに留学した。フルトヴェングラーの元秘書の知遇と助言を得て、ヘルムート・ロロフに入門する。1959年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演し、ドイツ・デビューを果たす。
1 経歴
1.1 早年期
1.2 パリへ
1.3 ベルリンへ
1.4 教育
1.5 晩年
2 レパートリー
2.1 時代
2.2 様式
2.3 録音
2.4 出版
3 園田とピアノコンクール
3.1 園田高弘賞ピアノコンクール
3.2 国際ピアノコンクール
4 エピソード
5 脚注
6 著書
7 外部リンク
経歴
早年期
パリへ
ベルリンへ
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