園城寺
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2019年5月)

園城寺
金堂(国宝)
所在地滋賀県大津市園城寺町246
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度0分48.09秒 東経135度51分10.26秒 / 北緯35.0133583度 東経135.8528500度 / 35.0133583; 135.8528500座標: 北緯35度0分48.09秒 東経135度51分10.26秒 / 北緯35.0133583度 東経135.8528500度 / 35.0133583; 135.8528500
山号長等山(ながらさん)
宗派天台寺門宗
寺格総本山
本尊弥勒菩薩
創建年7世紀
開基大友与多王
中興年貞観元年(859年
中興智証大師円珍
正式名長等山 園城寺
別称三井寺
札所等西国三十三所第14番
西国薬師四十九霊場第48番(別所水観寺
近江西国三十三観音霊場第4番(別所・近松寺)・第5番
江州三十三観音第3番(別所・近松寺)・第4番
湖国十一面観音菩薩霊場第1番(別所・微妙寺
びわ湖百八霊場第5番(別所・近松寺)・第6番
神仏霊場巡拝の道第147番(滋賀第15番)
文化財金堂、絹本著色不動明王像(黄不動)ほか8件(国宝
大門、食堂、梵鐘ほか(重要文化財
法人番号9160005000624
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園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗総本山寺院山号は長等山(ながらさん)。本尊弥勒菩薩。開基(創立者)は大友与多王。日本三不動の一つである黄不動で著名であり、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所で札所本尊は如意輪観世音菩薩である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。なお一般には三井寺(みいでら)として知られる。平安時代などの日本古典文学で、何も注釈を付けず「寺」と書かれていれば、この園城寺を指す(当時の古典文学では延暦寺もしばしば取り上げられているが、こちらは「山」(比叡山)と呼ばれている)。

2015年平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観? 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される[1]

札所本尊真言(如意輪観音):おん ばだら はんどめい うん

ご詠歌:いでいるや波間の月を三井寺の 鐘のひびきにあくる湖
歴史

当寺は7世紀に大友氏 (古代)氏寺として草創され、9世紀にから帰国した留学僧円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。園城寺は平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争(山門寺門の争い)が激化し、比叡山の宗徒によって園城寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、園城寺は「不死鳥の寺」と称されている。
円珍の登場

園城寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。そして、大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没した。しかし、大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒菩薩像を本尊とする寺をようやく建立した。壬申の乱では大友皇子と敵対した天武天皇ではあるが、朱鳥元年(686年)この寺の建立を正式に許可し、「園城寺」の寺号を与える。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在の園城寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期や飛鳥時代に遡る古瓦や、崇福寺穴太廃寺、南滋賀町廃寺と同じ形式の瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。「三井寺」の名称の由来となった井戸「閼伽井屋」(重要文化財)

園城寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)に初めて園城寺長吏に就任し、その後の園城寺の発展の基礎を築いたのが智証大師円珍である。円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡(現・香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認の正規の僧となり、円珍と改名した。その後、比叡山の規定に従って十二年籠山行(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから後に園城寺は修験道とも深い繋がりを持つようになる。仁寿3年(853年)にはへ留学して6年間、各地で修行。青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国し、翌貞観元年(859年)に大友氏の氏寺であった園城寺に入り、清和天皇より仁寿殿を賜わって「唐坊」(とうぼう)、後に改めて「唐院」(とういん)とし、これを現在の護法善神堂がある場所に設置し、寺を再興する。寺を整備して修行の道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵し、園城寺は延暦寺の別院となった。


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