国風文化
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国風文化(こくふうぶんか)とは、日本の歴史的文化の一つである。10世紀の初め頃から11世紀摂関政治期を中心とする文化であり、12世紀院政期文化にも広く影響を与えた。

江戸時代から用例はあるが、「国風文化」という用法は小島憲之の『国風暗黒時代の文学』により国文学史の分野で一般的となり、その後歴史や美術史へ転用された。原義の「国風」とはくにぶり(地方の習俗)の意味であり「(みやび)」に対置される概念であるが、日本での国風文化は雅風への展開という意味合いで使われている[1]。国風文化(こくふうぶんか)とは、日本の歴史的文化の一つである。
特色

中国の影響が強かった奈良時代の文化(唐風)に対して、これを国風(和風・倭風)文化と呼んでいる。現在まで続く日本の文化の中にも、この流れを汲むものが多い[注釈 1]

11世紀に確立された「日本的な美」の特徴は、美しい色彩とやわらかく穏やかな造形の組み合わせによる、調和のとれた優美さにあると言える[2]。平安時代は日本史上最も女性の感性が大切にされた時代であり、王朝文化が醸成していく過程では、女性たちの趣味や嗜好が色濃く反映された[3]内裏では調度を整えるにあたり、公式な場やハレの場では漢詩や唐絵の掛軸などで唐風に誂えたが、私的な場、の場では和風に誂えるという使い分けをした[4]
遣唐使の停止

以前は寛平6年(894年)の遣唐使停止により中国の直接的影響を抜け出し、日本独自の文化が発展したと一般的に解釈されてきた。

しかし、遣唐使は、9世紀には頻度が減り、仁明天皇の治世に相当する、承和年間(834年 - 848年)の派遣が最後となった。その一方で、9世紀には中国からの海商が多数渡航するようになったため、遣唐使をわざわざ派遣しなくても中国の文物を多く入手できるようになった。

そのため、遣唐使停止を国風文化の画期とすることは誤りである。そもそも、唐風の文化を踏まえながらも日本の風土や生活感情である「国風(くにぶり)」を重視する傾向は奈良時代から進行していた。すなわち、遣唐使停止は日本文化の国風化を加速させる要因であったとみることが適当である。
浄土教の流行

日本仏教では、末法思想を背景に浄土教(浄土信仰)が流行した。9世紀前半に円仁が中国五台山の念仏三昧法を比叡山に伝えており、源信が『往生要集』を著して天台浄土教を大成した。往生伝。また空也は庶民に対しても浄土教を広め、市の聖と呼ばれた。浄土信仰は京の貴族に深く浸透し、国風文化の仏教建築、仏像絵画などにその影響を残した。
女房文学の発達

藤原氏藤原北家)による摂関政治は、外戚政策(天皇家に子女を入内させ、その子を天皇として外祖父となり権力を握ること)に立脚するものだった。藤原氏は子女を入内させると天皇の歓心を得るために有能な女性を選抜し、女房として近侍させた。女房は受領階級などの中級貴族の子女が多く、中級貴族たちは藤原氏に取り入るべく子女の教育に努力を惜しまなかった。そのため、清少納言紫式部など多くの女流作家が生まれることとなった。
かな文字の使用

奈良時代から日本語を表記するため漢字の音訓を借りた万葉仮名が使われていたが、この時代になって仮名文字ひらがなカタカナ)が広く使われるようになった。カタカナは漢字の一部に由来し(例:伊→イ)、漢文を訓読する際の補助文字として使われた。また、ひらがなは漢字の草書体を元にしたもので(安→あ)主に女性が用い始めた。紀貫之が書いた『古今和歌集』の「仮名序」は、漢文の用法を遺しながらも平仮名で書かれた和文として初期のものである。
文学
和歌

古今和歌集延喜5年(905年)に醍醐天皇紀貫之紀友則凡河内躬恒壬生忠岑等に編纂を命じて出来た最初の勅撰和歌集


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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