国際連合平和維持活動
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「PKO」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「PKO (曖昧さ回避)」をご覧ください。

国際連合平和維持活動
各国語表記

: United Nations Peacekeeping(英語)

国際連合平和維持活動の関係者が必ず着用する防護ヘルメット。これは普通の防弾ヘルメットに専用カバーを掛けた物だが塗装されている物もある
略称PKO
状況活動中
活動開始1948年
(76年前) (1948)
公式サイトhttps://www.un.org/en/peacekeeping
United Nations peacekeeping missions
Portal:国際連合
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1988年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:国連の基本的信条の実現に向けての重要な貢献に対して

青色が現在活動中。水色が過去に活動を実施した地域ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で展開するノルウェー軍の兵士(1992年UNIFILYP-408装甲兵員輸送車。白に塗色されるのが通例である

国際連合平和維持活動(こくさいれんごうへいわいじかつどう、: United Nations Peacekeeping Operations)は、国連憲章でうたわれた集団安全保障を実現し[1]紛争において平和的解決の基盤を築くことにより、紛争当事者に間接的に平和的解決を促す国際連合の活動である。日本ではPKOと称されることが多い。PKOに基づき派遣される各国軍部隊を、国際連合平和維持軍(こくさいれんごうへいわいじぐん、英語: United Nations Peacekeeping Force)という。日本ではPKFとも略される。6章半活動とも呼ばれる。
概要

平和維持活動は、「国際の平和及び安全を維持する」(国際連合憲章第一章)ため、国際連合が小規模の軍隊を現地に派遣して行う活動である。従来は、紛争当事国の同意を前提に派遣されていたが、冷戦後は必ずしも同意を必要とせずに派遣する例もある。平和維持活動については、憲章上に明文の規定はないが、「ある種の国際連合の経費事件」において国際司法裁判所がその合法性を認め、国際連合総会1962年の第17回総会でこれを受諾している(総会決議1854)。

軍事部門に派遣された各国の軍隊は、自国の軍服戦闘服)に、水色のベレー帽(「オリーブ頸飾付き地球儀」の国連紋章バッジ付き)や戦闘用ヘルメットをかぶることから、「ブルーベレー」や「ブルーヘルメット」と通称される。また、派遣車両(軍用多用途軽車両装甲兵員輸送車)はPKO部隊であることを明示するため、白に塗色され、「UN」(国際連合の略称)と大書きされる。参加した軍人や警察官(国連警察(英語版))には、記念の国際記章国連メダルが国際連合から授与される。

活動予算は国連の通常活動のための通常予算とは別に建てられ、基本的に国連加盟国の分担金で賄われる。分担率は通常予算に適用される分担率が基本であるが、途上国に負担軽減を認める一方で安保理常任理事国には加重負担を求めている[2]。2010年の予算総額は96億7070万ドルで、分担金上位は最多のアメリカ合衆国が26億7500万ドル(分担率27.1743%)、次いで日本の12億590万ドル(同12.5300%)、イギリスの7億8310万ドル(同8.1572%)[3]
歴史
初期

第一次中東戦争停戦後の国際連合休戦監視機構 (UNTSO)が最初の国際連合平和維持活動とされ、創設日の5月29日は「国連平和維持要員の国際デー」という記念日になっている。その翌年には第一次印パ戦争の停戦から国際連合インド・パキスタン軍事監視団 (UNMOGIP)が設立された。

1956年の「スエズ危機」の際、カナダレスター・B・ピアソンの提唱によって第一次国際連合緊急軍 (UNEF I) が創設され、危機を鎮圧した。現代的な国連平和維持活動を形作ったピアソンは1957年ノーベル平和賞を受賞し「国連平和維持活動の父」と呼ばれる。

最初の40年間においては、非武装の軍事要員で編成する停戦監視団、または軽武装の平和維持軍の活動が主要であったが、1989年に国際連合ナミビア独立支援グループ (UNTAG) の下で、歴史上初めて文民による選挙監視活動が実施された。1989年12月のマルタ会談冷戦終結宣言が行われてからは、冷戦の下で抑圧されてきた地域的な民族・宗教・領土紛争が頻発するようになり、国連はこれらに対応するために、非政府機関と協力して国連平和維持活動に乗り出した。

また、活動の規模や内容も徐々に拡大・多様化し、1992年には、当時の国際連合事務総長だったブトロス・ブトロス=ガーリによって発表された『平和への課題』において、予防展開や平和執行などが提案されるようにもなる。1990年から1994年の間に、16件もの平和維持活動が承認されたことからも分かる。ただし新たな試みであった強制執行は、ソマリア内戦第二次国際連合ソマリア活動に対してソマリアから宣戦され、激しい抵抗により撤退を余儀なくされるなど、失敗する[4]
変質

1994年のルワンダ虐殺では、当事者間での停戦合意が失われており、中立性維持のためPKO部隊が住民の保護をせずに撤退し、国際世論から大きな批判を受けることとなる。これを受け1999年には、コフィー・アナン国連事務総長が、国連自体が紛争当事者になることを前提に、国際人道法武力紛争法)の遵守を告示するに至り、PKOの変質が明らかになった[5][6][6][7]

さらに2013年には国際連合コンゴ民主共和国ミッションにおいて、先制攻撃も可能な強制介入旅団(FIB)の設立がなされ、程なくして反政府武装勢力3月23日運動の掃討に成功する[8]

2016年7月に内戦中の国連加盟国である南スーダン国軍により、首都ジュバの住民に多数の犠牲者が出た際には、加盟国との交戦を避けるためPKO部隊による住民の保護がなされず、再び国際世論の批判を招くこととなる。これを受け潘基文国連事務総長はケニア出身の司令官を解任したが、ケニアはこの対応に反発しPKOから部隊を撤退させる事態となった[6][9][10]

一方、このようなPKO活動の変質の中で、活動での犠牲者数が増加するなどしたため派遣国内での派遣支持率が低下し、1994年からは各国が平和維持活動に対して拒否または忌避する国家も現れるようになり、やがて主要部隊の構成は発展途上国や派遣先周辺国が主となるようになる[4][7]
日本の関与

日本は1992年6月8日に成立した国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律に基づき、1992年(平成4年)の第2次アンゴラ監視団 (UNAVEM II) に選挙監視団として、3名を派遣したのが始まりである。以後11のPKO等に要員を派遣している[11][12]


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