国際通貨基金
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国際通貨基金
各国語表記

International Monetary Fund(英語)
Fonds monetaire international(フランス語)
Международный валютный фонд(ロシア語)
国???基金??(中国語)
Fondo Monetario Internacional(スペイン語)
????? ????? ??????(アラビア語)
シンボルマーク
IMF本部
概要専門機関
略称IMF
代表クリスタリナ・ゲオルギエヴァ(英語版)専務理事
状況活動中
活動開始1945年12月27日[1]
本部 アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
公式サイトwww.imf.org
International Monetary Fund
Portal:国際連合
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国際通貨基金(こくさいつうかききん、英語: International Monetary Fund, IMF)は、国際連合(国連)の専門機関の一つ。国際金融為替相場の安定化を目的として設立された。本部はアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.。2018年現在、加盟国は189か国である[2]

加盟各国の中央銀行の取りまとめのような役割を負い、国際貿易の促進、加盟国の高水準の雇用と国民所得の増大、為替の安定などへの寄与を目的とする。具体的には、経常収支が悪化した加盟国への融資、為替相場と各国の為替政策の監視などを行っている。世界銀行と共に、国際金融秩序の根幹を成す。
沿革
ブレトン・ウッズ体制

1929年世界恐慌は世界の経済システムに大打撃を与え、「金本位制」はほとんどの国で放棄された。国際金融や為替を管轄する国際機関は存在せず、これが経済混乱を助長する一因となった。各国間では通貨の切り下げ競争が起こり、一部の国は経済混乱を乗り切るために軍拡と侵略へと走り、第二次世界大戦が引き起こされた。こうしたことから、連合国の戦後構想の一環として、国際金融や為替について各国間の協力と調整を行う国際機関の設立が構想された。この組織をめぐってはイギリスのジョン・メイナード・ケインズの案とアメリカのハリー・ホワイトの案の二つが提出されたが、最終的な組織はホワイトの案に近いものとなった。

1944年7月アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ブレトンウッズにおいて、国際金融並びに為替相場の安定を目的として、国際連合の「金融財政会議」が開催された。この会議において調印された「ブレトン・ウッズ協定」によって、第二次世界大戦後復興策の一環として、安定した通貨制度を確保するための国際通貨基金の設立が国際復興開発銀行と共に決定され、1945年12月27日に29か国で創設された[3][1]

1947年3月にIMF協定が発効し、実際の業務を開始した。また、国際連合と協定を結び、国際連合の専門機関となった。一方、ソビエト連邦はブレトン・ウッズ会議には参加したものの結局批准せず、ソ連および社会主義諸国は1949年経済相互援助会議(COMECON)を設立して「ブレトン・ウッズ体制」の枠外に立つことになった。こうしたことからIMFの本部はアメリカの首都であるワシントンD.C.に置かれることになり、他と懸絶した経済力を持つアメリカの発言権が強い組織となった。

発足当初は外為市場で交換される通貨を物理的に輸送していた。これを見かねた欧州経済協力機構が1950年にヨーロッパ支払同盟をつくった。これは各月末で決済する外為取引用の手形交換制度である。1958年、十分なキャッシュフローを備えるかたちでヨーロッパ通貨協定に改組された。業務の遂行に欧州各国の承諾がいらなくなり、かわりに経済協力開発機構が指揮を担った。協定は1972年に終了し、IMFがその業務を継承した。

国際通貨基金は戦後の経済秩序の根幹をなし、IMF体制(ブレトン・ウッズ体制)と呼ばれるこの経済体制下で西側諸国は徐々に繁栄していくようになった。この体制の根幹はアメリカが「金1オンスを35USドル」と定め、そのドルに各国がペッグして固定相場制を取るという変則的な金本位制によって成り立っていた[4]金本位制を取るアメリカ・ドルに各国通貨がペッグしていることから、この時期の通貨体制を「金・ドル本位制」とも呼ぶ。この時期のIMFは参加各国の為替自由化を主要な目標とし、国際収支の赤字を理由に為替制限ができるIMF14条国から、それができないIMF8条国への参加各国の移行を目指していた。この目標は西ヨーロッパ諸国においては1961年に、日本においては1964年に達成された。

しかしこの頃から、西ヨーロッパ諸国や日本は急速に経済発展し、一方のアメリカは経済的に低迷するようになった。このアメリカの相対的な経済優位の喪失は、市場からマイナスの評価を下され、アメリカから大量の金が流出するようになった。また、アメリカによるベトナム戦争の軍事介入は、アメリカの戦費を増大させ、アメリカの財政赤字をますます悪化させた。そして、世界において、アメリカ・ドルへの信頼がさらに低下していった。IMF体制(ブレトン・ウッズ体制)が揺らぎ始めたのである。

こうした状況を改善するため、IMFは1969年の第一次協定改正によって、金やドル等の既存の準備資産を補完するための公的準備資産である「特別引出権(SDR)」を創設した。これにより、加盟国はそれまでのIMFに対する直接借入れに加え、他の加盟国からIMFが定める「自由利用可能通貨」(2018年現在はドル・ポンド・ユーロ・円・人民元)という通貨バスケットにある通貨を融通してもらうことが可能になったが、それでも、アメリカの貿易赤字と信認の低下は依然と続いた。アメリカからの金の流出も続いた。

そして、ついに、1971年8月15日、アメリカのリチャード・ニクソン大統領は、アメリカ・ドルと金との兌換停止を電撃的に発表した。これにより、「金・ドル本位制」は崩壊した(詳細は「ニクソン・ショック」を参照)。これは同時にブレトン・ウッズ体制の崩壊をも意味していた。

このアメリカの発表を受けて、世界各国は新たな国際通貨体制を模索し、1971年12月18日、とりあえず、ドルと各国通貨との交換レート改定を柱とする「スミソニアン協定」を締結し、固定相場制の存続を図ろうとしたが、ドルの暴落は依然として止まらず、固定相場制は存続不可能となった。そして、世界各国は相次いで変動相場制を採用し、1973年にはスミソニアン体制は完全に崩壊することになった。この状況に対し、IMFは1976年に変動相場制の承認や金の公定価格の廃止を含んだ「キングストン合意」[5]を採択し、1978年には発効した[6]。世界経済は、変動相場制を基礎とする「キングストン体制」が新たに始まったのである。
ブレトン・ウッズ体制崩壊後

1970年代中盤以降になると、発展途上国の経済・債務問題への対処がIMFの大きな目的の一つとなった[7]。先進国への融資は1978年を最後としてほぼなくなり[8]、発展途上国への融資がIMFの主要な目的の一つとなった。これは、戦後の復興が一段落つき、開発資金援助へと特化していた国際復興開発銀行および世界銀行グループと業務の重複を生むこととなった。

折から、第二次石油ショック後の資源価格の下落や1970年代の無理な産業開発戦略の影響で、1980年代に入ると中南米諸国やアフリカ諸国において債務危機が多発するようになった。

これを受け、IMFは発展途上国に救済融資を行った。それまでのIMFの融資条件はさして厳しいものではなかった[9]が、この融資を行うに当たり、IMFは問題の根源は支払い能力ではなく資金の流動性にある、すなわち債務支払い能力がないわけではなく、一時的に資金繰りがショートしているだけであると考え、IMFは当該国の政府に緊縮財政政策を取らせて経常収支を改善するよう付帯条件をつけた。

発展途上国はIMFの勧告に従い、増税や政府支出削減、民営化、経済自由化、通貨切り下げなどを行った[10]。こうした政策を総称して、「IMFの構造調整」と呼ぶ。このIMFの構造調整政策はラテンアメリカやアジア・アフリカの発展途上国を対象として広く行われたが、特にアフリカにおいては経済成長をもたらすことはなく、逆に経済の停滞、悪化を招いた[11]


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