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この項目では、沖縄県の道路について説明しています。その他の用法については「国際通り (曖昧さ回避)」をご覧ください。
昼の風景夜の風景県庁北口交差点、国際通りの南端に面するパレットくもじ
国際通り(こくさいとおり、こくさいどおり)とは、那覇市の県庁北口交差点(パレットくもじ前交差点)から安里三叉路までの約1.6kmの通り。沖縄県で最も賑やかな通りであり那覇最大の繁華街である。
「国際通り」の読み方は、沖縄県内や国の機関[1]を含め一般的には「こくさいどおり」と呼ばれているが、通りの入り口には「こくさいとおり」と彫られたシーサーの石碑がある。 那覇の中心部を通る沖縄県道39号線の一部であり、沖映通りやマチグヮー商店街などとともに商業エリアになっている文化的な中心地でもある[2]。沖縄戦後、那覇の中心部は戦前に整備された新県道(牧志街道)周辺から復興が始まったが、ここには1948年に建設されたアーニーパイル国際劇場があったことから「国際通り」と呼ばれるようになった[2][3]。戦後の焼け野原から目覚しい発展を遂げたこと、長さがほぼ1マイルであることから、『奇跡の1マイル』とも呼ばれている[4]。 国際通りではイベントとして首里城祭(琉球王朝絵巻行列)が開催されている[4]。国際通りでは、トランジットモールの拡充、無電柱化、ポケットパークの設置などの取り組みが行われている[2]。 なお、地元住民の生活にかかわる商店街はその裏手の平和通りや「沖縄の台所」とも呼ばれている牧志公設市場など、この通りに隣接している(国際通りからの入口は、通りのほぼ中間地点に当たるむつみ橋交差点周辺)。 1933年(昭和8年)に旧那覇市中心部と首里市を最短距離で結ぶ県道の一部として整備され、「新県道」あるいは「牧志街道」と呼ばれていた。郊外の一本道で、人家は少なく畑や湿地帯が広がっていた[3][5]。 太平洋戦争末期の沖縄戦で繁華街は焦土と化した。牧志街道も例外ではなかった[3]。 沖縄戦後、米軍によって従前の那覇の中心地(現在の那覇市西・久米・辻付近)が接収されてしまい、人々は行き場を失っていた。まず、壺屋地区の窯業業者たちが産業復興を名目として入市。続いて牧志地区の瓦職人たちも入市が認められた。ほかの人々もみな窯業関係者や職人の親戚縁者を名乗って市内に入り始め、壷屋から牧志にかけてのガーブ川周辺や新県道近くに居ついて自然発生的に闇市が広がった。芝居小屋が建ち、1948年(昭和23年)には、米軍の物資集積所があった新県道沿いの土地に琉球列島米軍政府と琉球政府の協力で「アーニーパイル国際劇場」という映画館が開館(現在のてんぶす那覇付近)。連日大変な賑わいを見せた。映画館にちなんで「国際通り」の名が定着した。[3]。 1953年の牧志街道改修工事を契機に店舗が多数集まり、大繁華街を形成。このころより沖縄復興のシンボルとして「奇跡の1マイル」と称されるようになる。1マイルは国際通りの長さを表す[3]。 デパートなどの大店舗が集まる繁華街であったが、地域の繁華街としての役割は次第に周辺部へ移行し、大型ショッピングセンターは駐車場を確保できる郊外に、生活に密着した店舗はその裏通りにある平和通りやその周辺に移行した。国際通りの方は、その名が著名になるにつれ観光客が増え、店舗も次第に観光客向けのものが増加。那覇新都心など周辺地域の開発もあり、現在では沿線事業者の大部分は土産物店や有名飲食店、ホテルなどであり、ほとんどが観光客向けの通りの様相を呈している。また、同系列の店舗で2号店・3号店などが同じ通り上に乱立している。
概要
歴史1950年代前半の国際通り1955年の国際通り