国際子午線会議
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国際子午線会議
中央左寄りの縦の赤線がグリニッジ子午線
開催国 アメリカ合衆国
日程1884年10月1日 - 11月1日[1]
都市ワシントンD.C.
議長C・R・P・ロジャース(英語版)[1]
注目点


世界時の確立

グリニッジ子午線を国際的な経度0°の基準とする合意

国際子午線会議(こくさいしごせんかいぎ、: International Meridian Conference)は、国際的に使用するための本初子午線を決定するために、1884年10月にアメリカ合衆国ワシントンD.C.で開かれた会議[1]。万国子午線会議[2]、本初子午線並計時法万国公会[3]ともいう。この会議はアメリカのチェスター・A・アーサー大統領の要請で開催された。その議題は「万国共通の経度零度並びに時刻計算の基準として用いられるべき子午線」の選定であった[1]。会議の結果、グリニッジ子午線が国際的な経度0度の基準に選出された[1]
背景

1870年代までに、広く世界中で航海目的に用いる本初子午線を確立すること、及び鉄道時刻表に用いる地方時を統一すること、という二方面からの圧力があった。1871年にアントウェルペンで開かれた第一回国際地理学会議では、(小縮尺の)水路図用にグリニッジ子午線を使用することに賛成する動議が可決され、15年以内にそれが義務化されることを示唆していた[4]アメリカ合衆国内の主要な町の地方時

イギリスでは、1840年には既にグレート・ウェスタン鉄道で標準化された鉄道時間が扱われていたほか、1847年には鉄道運賃交換所 (Railway Clearing Union) が「英国郵政省 (General Post Office) の許可が下り次第、全ての駅でグリニッジ標準時 (GMT) が採用される」ことを宣言した。英国郵政省はこの頃には、時計を合わせるために、グリニッジからイギリスのほとんどの地方へ、電信報時信号を送信していた。1848年1月までに、『ブラッドショーの鉄道案内(英語版)』は統一された時刻を掲載し、(GMTが初めて正式に全国で確立されたのは1890年のことであるとする)法律に関する論争はあったものの、一般の称賛を浴びた[5]

一方、アメリカでは、問題はイギリスよりもはるかに深刻で、一つの時刻表に100を超える地方平均時に基づく時刻が掲載され、その時間には3時間以上の差がある始末であった。1870年にチャールズ・ダウド(英語版)は "A System of national time and its application" と題した小冊子を出版して、全国をワシントン子午線に基づく3つの時間帯に分けることを主張し、翌々年の1872年にはグリニッジ子午線に基づいてそれを4つの時間帯に修正した。

世界中で一貫した時刻の取り扱いについての最初の提案は、当時カナダ太平洋鉄道の技師長を務めていたサンドフォード・フレミングが1876年に Canadian Institute に提出した、"Terrestrial Time" (直訳すると「地球時」)と題された学術論文である。この論文では、24時間制世界時を表す時計に、一つ付け足した文字盤で地方時を示しつつ、それを丸めた最も近い (hour) を指すような時計について考察された[6]。フレミングは、地方平均時の補正の多くが、放棄されかかっていた太陽時のそれらよりも大きいことを指摘した。1878年から1879年の時期に、フレミングはグリニッジ子午線を使用して修正を施した提案を出した。このフレミングの2本の論文は非常に重要なものであると考えられ、1879年6月にイギリス政府がその複写を18か国の諸外国とイングランドの様々な学術団体に転送したほどであった[7]。それと同時期にアメリカ計量学会は、本質的に同じ案を提案していたアメリカ気象局のクリーブランド・アビー(英語版)局長による、標準時に関する報告書 "Report on Standard Time" を出した。

これらの諸提案は、共に様々な都市に地方時を支持する通信社を設立していた、アメリカ海軍天文台台長のジョン・ロジャース(英語版)とイギリス王室天文官グリニッジ天文台台長のジョージ・ビドル・エアリーの両者に反対されるなど、学界で広く賛意を得ることはなかった。また、海軍天文台は、大西洋横断電信ケーブル経由で受信し、ボストンの信号球の時刻を合わせるために使用された、グリニッジ報時信号をハーバードから送信する計画を失敗させようとしていた[8]

国際子午線会議の起源は、1881年にヴェネツィアで開かれた第三回国際地理学会議にあり、そこでは普遍的な本初子午線の確立と時刻の統一基準が議題に上った。1883年10月にローマで第七回国際測地学会議が開かれた際、徹底的な検討により技術的詳細の大部分が得られたが、外交上の取り決めについては後の会議の課題として残された。アメリカでは1882年8月3日に、世界中の時刻と経度の基準とする共通の本初子午線を決めるための国際会議を招集する権限を大統領に与える法案が議会を通過した[9]

1883年10月11日にシカゴで鉄道事業者の幹部らが集まる会議が開かれ、グリニッジ平均時を基準として使用する5つの時間帯を北アメリカで実施することが同意された[10][11]。ワシントンでの会議への招待状が12月1日に発送される前に、アビー、フレミング、及びアメリカの鉄道の総合時刻会議の幹事で、Travellers' Official Guide to the Railways の編集長であったウィリアム・フレデリック・アレンの共同努力によって、1883年11月18日の正午に全国で導入されることになる、標準的な鉄道時間に移行する合意がアメリカの鉄道会社にもたらされた。これが法的に確立されたのは1918年になってからのことではあるが、ワシントンでの会議の前にこうした既成事実感は強かった。他方、地方時の設定は会議の権限の範囲外であった[12]
参加国

26か国から41名の代表者らが会議に参加した[1]



 アメリカ合衆国

 イギリス

 英領インド

 カナダ自治領


 イタリア

 エルサルバドル

 オーストリア=ハンガリー



 オスマン帝国

 オランダ

 グアテマラ

 コスタリカ

 コロンビア

 スイス

 スウェーデン=ノルウェー



 スペイン

 チリ

 デンマーク(欠席)

 ドイツ帝国

 ドミニカ共和国

 日本

 パラグアイ



 ハワイ

 ブラジル帝国

 フランス

 ベネズエラ

 メキシコ

 リベリア

 ロシア


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