国際刑事裁判所の歴史
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国際刑事裁判所の歴史(こくさいけいじさいばんしょのれきし)では、国際刑事裁判所 (ICC)の着想から誕生、発足、そしてそれ以降の現代に至るまでの発展の軌跡(1945年 - 2009年)を辿る。

国際刑事裁判所の設立構想は国際連合の創設にまで遡り、実は国連と同じ年月をかけて発展してきた。1998年7月17日、この構想は遂に実を結び、常設となる国際刑事裁判所 (ICC) を設立するための条約が、国連の外交会議で139カ国の賛同を得て採択された。この条約は4年後の2002年7月1日に発効し、2003年3月11日、史上初の国際刑事裁判所がオランダハーグにて正式に発足した。
国際刑事裁判所発足の経緯
構想の誕生と低迷

2002年の7月に条約が発効し、翌年の3月には開所した国際刑事裁判所(ICC)の設立構想は、半世紀以上も前、国際連合の設立当初から存在していた。第一次世界大戦終結後パリ講和会議にてのヴェルサイユ条約による戦後処理で戦争開始を導いたヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)を「国際道徳と条約の神聖を傷つけた最高の犯罪」として特別裁判所で審理することを定めようとしたが実現しなかったことを起因とし、第二次世界大戦後のニュルンベルク国際軍事裁判と極東国際軍事裁判の経験を踏まえ、国際社会が常設の国際法廷を設置して将来の大量虐殺や侵略の発生を抑止するのを目的に構想が着手されていたのである。しかし、東西冷戦によって数十年にわたりこの構想は凍結されることとなる。

1948年12月、第3回国連総会は、ジェノサイド(集団殺害)などの国際犯罪を裁くために国際刑事法廷の設立が必要であることを認める決議260号を採択し、ジェノサイド条約を成立させた。このとき初めて、ジェノサイドは国際法上の犯罪として定義され、その訴追を当該国の国内法廷の他に、国外の適切な国際戦犯法廷が行うことが規定された。また国連総会は同じ決議で国際法委員会(International Law Commission, 略称: ILC)に対して、個人を裁くための国際刑事法廷の設置の実現性を検証するよう勧告した。

1949年スイスジュネーヴで、第二次世界大戦後の慣行を取り入れた戦争犠牲者の保護と文民保護に関する4つの条約、ジュネーヴ諸条約が採択される。これら諸条約が発効した1950年以降、人道面に関する戦争法一般が立法化されることになる。

1951年国際法委員会の報告に基づき、国連総会で国際刑事裁判所設立のための検証委員会が設置され、設立規程の草案が策定される。

1953年、国際刑事裁判所設立草案は修正されて再び国連総会に提出されるが、侵略の罪に関する審議が停滞したため総会は草案の採択を断念。その後、半世紀近くに渡って草案の検討は凍結されることになる。

1977年スイスで戦争犠牲者の保護を目的として1949年締結されたジュネーヴ諸条約を発展・補完する目的で2つのジュネーヴ諸条約の追加議定書が採択される。第一追加議定書は国際的武力紛争における犠牲者の保護を目的とし、第二追加議定書は非国際的武力紛争における犠牲者の保護を目的とするものだった。

議論の復活と進展

90年代に入り冷戦が終結すると、冷戦後に頻発した民族紛争に対処するために国際社会は新たな手段を必要とした。そして、旧ユーゴスラヴィアルワンダの紛争における集団レイプや大量虐殺人道に対する罪といった重大な国際犯罪を裁く臨時の国際犯罪法廷(International Crime Tribunals)として、旧ユーゴスラヴィアの戦争犯罪を裁くICTY(旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷)、ルワンダ虐殺を扱うICTR(ルワンダ国際戦犯法廷)などが設置されたことにより、常設の国際刑事裁判所設置の議論が復活し、急速に進展した。非政府組織(NGO)もこの準備過程へ積極的に参加し、国連や各国政府に対して様々な働きかけを行った。このときに誕生したのが、現在世界の2,000以上のNGOによって構成されるCICC(国際刑事裁判所を求めるNGO連合)である。

1989年8月、トリニダード・トバゴの国連代表が、国連事務総長に宛てた書簡で、個人の国際的刑事的責任を訴求することと、その訴追の為の国際刑事裁判所の設置を国連総会において審議することを提案した。

1992年11月、第44回国連総会はこの提案を受けて、国際法委員会へ常設国際刑事法廷の設立草案の策定再開を勧告した。

1994年12月、国際法委員会が国際刑事裁判所設立規程の草案の策定を完了し草案を国連総会に提出した。総会は、国際刑事裁判所の設立に関する特別委員会(Ad Hoc Committee on the Establishment of an International Criminal Court)の設置を認める決議を採択した。

1995年12月、特別委員会は国連総会で設置以後2回に渡って行われた会合の結果を報告した。総会はこの報告を受け、新たに準備委員会(Preparatory Committee)の設置を決める決議を採択した。

1996年12月、国連総会は国連加盟国の全権大使による外交会議の1998年開催を求める勧告決議を採択し、この会議の主催を申し出たイタリア政府に対し深い感謝の意が伝えられた。

1998年3月、国連が設置した国際刑事裁判所の設立に関する準備委員会が、その最終会合で国際刑事裁判所設立規程草案の策定を完了する。

加速、そして発足へ

1998年7月、イタリアローマ国際刑事裁判所設立のための国連全権外交使節会議が開かれ、1995年に発足したばかりのCICCもオブザーバー参加する中、120カ国の賛同(日本は当時未署名)を受けて国際刑事裁判所に関するローマ規程、通称「ローマ規程」が採択された。このローマ規程が発効するには60カ国の批准が必要だったのだが、ICCは国家主権の一部を国際機関に委譲するという側面をもつ可能性があり、各国とも国内法との調整の課題があったため、発効には20年は要するという見方もあった。しかし、冷戦後の国連や国際機関を中心とした新しい国際秩序(グローバル・ガバナンス)を求める世界的な機運と、CICCなど市民社会からの強い働きかけもあって署名および批准は順調に進んだ。そして、ローマ会議からわずか4年後の2002年7月1日、ローマ規程は139カ国の署名と60カ国の批准を得て正式に発効し、翌年3月にはオランダハーグに裁判所が設置された。国連創設から半世紀以上の時を経て、史上初の常設国際刑事裁判所の設立構想が遂に実を結び、2003年3月11日、ICCは正式に発足した。

1998年7月17日ローマにおける国連全権外交使節会議において、参加した159カ国のうち120カ国の賛成票を集めて国際刑事裁判所ローマ規程が採択される。このとき、関連文書として国際刑事裁判所の設立に関する最終合意書も採択され、国際刑事裁判所設立のための準備委員会(Preparatory Commission, PrepCom)が正式に発足する。

2002年3月、拡大前のEU(欧州連合)のほぼ全加盟国(チェコを除く)を含めた56カ国が批准しているという状況になる。

2002年4月、ボスニアルーマニアカンボジアブルガリアコンゴ民主共和国アイルランドヨルダンモンゴルニジェールスロバキアら10カ国が一挙に批准し、条約発効に必要な60カ国の批准の要件が満たされる。国連ではこれを記念して、ニューヨークの国連本部で大々的に合同批准書寄託式典を催した。

2002年7月1日国際刑事裁判所ローマ規程が発効。国際刑事裁判所(ICC)はこの日以後に行われた集団殺害犯罪(ジェノサイド)、人道に対する犯罪、および戦争犯罪について管轄権を行使できるようになった。

2002年9月8日ニューヨークの国連本部にて締約国会議(Assembly of States Parties, ASP)が初めて招集される。


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