国際テロ情報集約室
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内閣官房内閣情報調査室紋章

内閣情報調査室(ないかくじょうほうちょうさしつ、英語: Cabinet Intelligence and Research Office)は、内閣官房情報機関[1]。略称は内調(ないちょう)、CIRO(サイロ)[1]
概要内調のある内閣府庁舎

内閣官房に属する情報機関である[1]。職員数は194名[2]。所在地は内閣府庁舎6階[3]

日本政府情報機関を代表する取りまとめの役割で、最高位の内閣情報官指定職8号の事務次官級で、国内外の特異情報の分析を内閣総理大臣に直接報告している。原則的に定例報告は週2回程度行われている[4]。情報収集の手段別では、シギント(通信情報)は情報本部が、国内の諜報防諜に関わるヒューミント(人的情報)は公安調査庁公安警察がそれぞれ主に担っており[5]、内調は内閣の重要政策に関する国内外の政治経済テロなどの治安に関しオシント(公開情報)、ヒューミントを中心に担っている[6]2013年にはヒューミント専門部署の内調設置が政府内で検討された[7]。内調の下部組織の内閣衛星情報センターは、情報収集衛星からイミント(画像情報)の収集及び分析を行っている。内調はアメリカ合衆国中央情報局(CIA)・イギリス秘密情報部(SIS)などの外国政府の情報機関との公式なカウンターパートとなっており、ほかに合同情報会議の事務手続きも行っている。そのため、「日本版CIA」と称されることもある[8]

日本国家安全保障に関する司令塔として国家安全保障会議ならびに事務局の国家安全保障局が設立されているが、国家安全保障局が国家安全保障に関する政策提言・立案を行うため、内調が必要な情報を国家安全保障局に提供している[9]。この連携のため国家安全保障局の情報班長には内調出向者が当てられている[10]

内調は生え抜きの職員をはじめとして様々な省庁からの出向者が所属しているが、内閣情報官を筆頭に警察庁からの出向者が多く、霞が関では警察庁の出先機関と捉えられている[11]

シギントを行っていた情報本部の前身組織のひとつである陸上幕僚監部調査部調査第2課別室(調別)は、実質的に内閣情報調査室の下部機関で歴代トップは内調から出向してきた警察官僚が占めており[12]、この経緯から現在も情報本部の電波部長は内調出向者の指定席である。
歴史
日本版CIA構想の頓挫

内閣情報調査室のルーツは総理府に設けられた内閣総理大臣官房調査室である。調査室設置の背景は「治安関係者だけでなく、各省各機関バラバラと言ってよい国内外の情報を一つにまとめて、これを分析、整理する連絡機関事務機関を内閣に置くべきだ」「外務省情報局に代わるべき内閣直属の情報機関が必要だ」[13]とする吉田茂首相の意向を受けて、戦前朝日新聞社副社長や情報局総裁を務めた緒方竹虎副総理と、元内務官僚で国家地方警察本部警備課長の村井順を中心に日本版CIA構想の先駆けとして創設された。

吉田はこの調査室を土台として、組織の拡張または別組織の立ち上げを行うことで日本のインテリジェンス機能を強化しようと考えており、国警が「内閣情報室設置運用要綱」を、外務省が「内閣情報局設置計画書」を、法務府特別審査局が「破壊活動の実態を国民に周知させる方法等について」をそれぞれ提出するなど、情報機関設置に関して警察・外務・法務各省庁がそれぞれ案を提出した。最終的に村井の案が通り、調査員は各省庁から出向させた。1952年(昭和27年)4月9日に総理府内部部局組織規程(総理府令)の一部改正により、内閣審議室の調査部門を独立させて[14]、内閣総理大臣官房調査室が設置された。ほかに法務府特別審査局を発展させた公安調査庁法務省の外局として設置されている。同時期に有末精三辰巳栄一などの旧軍人グループにより「内閣調査室別班」の設立が提唱されて「睦隣会」が発足し、のちに世界政経調査会となっている[15]

しかし、この後調査室が大規模な「中央情報機関」となる事はなかった。原因の1つは当時の世論である。緒方は内調を「世界中の情報を全てキャッチできるセンターにする」という構想を持っていたが、これに対して読売新聞を中心とする全国三紙が「内調の新設は戦前の(マスコミの統制やプロパガンダを担った)内閣情報局の復活である」として反対運動を展開した。これにより内閣情報局創設構想は後退を余儀なくされる[16]。もう一つは内務官僚と外務官僚の縄張り争いであった。インテリジェンスに理解のあった緒方が1956年に死去したことも大きかった。

1957年(昭和32年)8月1日には内閣法(法律)の一部改正、内閣官房組織令(政令)の施行及び総理府本府組織令(政令)の一部改正により、内閣総理大臣官房調査室が廃止されるとともに、内閣官房の組織として内閣調査室が設置された。
冷戦時代の内調

1955年には国際部に「軍事班」が設けられ、元海軍中佐久住忠男らを中心としてベトナム戦争の推移や沖縄に駐留するアメリカ軍の動向などを観察した。

60年安保をきっかけに内調は論壇の流れをフォローするようになり、安全保障論の育成のために中村菊男高坂正堯若泉敬小谷秀二郎現実主義的な論客の結集を助け、論議を普及するなどした[17]。現在でも内調は勉強会を数多く行っており、学識経験者や企業を招いて情勢分析を聞くなどしている[18]

1977年(昭和52年)1月1日には内閣調査室組織規則の施行により、内部体制が総務部門、国内部門、国際部門、経済部門、資料部門の5部門となる。

第1次中曽根内閣時代には当時内閣官房長官だった後藤田正晴の決断により[17]それまで内閣官房長官に行っていた「長官報告」が「総理報告」に格上げされ、世界的スタンダードである政府首脳への直接報告体制が確立された。


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