国際タイポグラフィー様式
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1898年、H. ベルトールドAG活字鋳造所設計のAkzidenz-Grotesk(アクチデンツ・グロテスク)。この書体は近代スイス・スタイルの顕著な特徴ともなった。

国際タイポグラフィー様式 (International Typographic Style、スイス・スタイル (Swiss Style) とも) は、清潔感・可読性・客観性を追求したグラフィックデザインの様式である。1920年代のロシアオランダドイツで発祥し、1950年代スイスで発展した。[1] この様式は、建築や芸術を含むあらゆるデザイン分野に衝撃を与えたモダニズム運動の一部であり、グラフィックデザインにも多大な影響を与えた。左右非対称のレイアウト、グリッドの利用、Akzidenz-Grotesk(英語版)(1957年リリースのHelveticaの原型となった)のようなサンセリフ書体、左揃え右ラグ組み(段落の左側の文字を揃え、右側は自然のままに不揃いにしておく)のような書体などが特徴である。また、イラストや絵の代わりに写真が使われる。初期の国際タイポグラフィー様式の作品の多くは、書体自体を本文としてだけでなく主要な図案要素として用いた。[2][3] スイスではドイツ語、フランス語、イタリア語など地方によって言語が違い、数カ国語が同時に記載される場合が多々あったので、ここからこのスタイルの名前が付けられたと言われる。デザイン分野におけるこの大きなムーブメントは、今なおデザイン戦略や理論などにその影響を見て取ることができる。
歴史

国際タイポグラフィー様式は、それまでの伝統的書体の背景の意味に影響されない、客観的な情報伝達を目指して発起されたスタイルである。ベルトールド活字鋳造所がそのコンセプトに沿って設計したアクチデンツ・グロテスク(英語版)を1896年にリリースし、これをきっかけとして、メッセージを明瞭かつ普遍的な方法で伝えようとするモダニズム運動の中で国際タイポグラフィー様式は進化を遂げた。この運動の初期において、著名なスイスのデザインスクール2校がこれに重要な貢献をした。19世紀に始まった、グリッドを下地としたグラフィックデザイン技術をもって、1908年のバーゼルデザイン学校(英語版)の基礎学科創設の足がかりとなった。 それからわずか後の1918年、エルンスト・ケラー (Ernst Keller) はチューリッヒ芸術大学の教授となり、グラフィックデザインならびにタイポグラフィ科を立ち上げた。彼は生徒たちに具体的な手法のみを教えるよりも、“デザイン上の問題に対する解決策は、その内容から自ずと明らかである” というその様式における哲学を熱心に指導した。[4] 問題自体から生まれるデザインという、ソリューションとしてのこの理念は、それまでの “美のための美” あるいは “美そのものを目的とした美の創造” に焦点を当てた芸術に対する答えでもあった。ケラーの作品には、意匠設計の背景にあるそれぞれの意味をより深く表すシンプルな幾何形態と鮮やかな色彩、想像力を掻き立てる視覚要素が用いられる。 Kontinuitat (: Continuity、日: 連続 (性)、“フランクフルトの巨像” とも) マックス・ビル (Max Bill、1986年、花崗岩)

このスタイルの初期のパイオニアには、テオ・バルマー (Theo Ballmer)、マックス・ビル (Max Bill) などがいる。

1950年代、国際タイポグラフィー様式の特徴を抽出したような、Univers(ユニバース)などのサンセリフ書体ファミリーが生まれた。Universは、マックス・ミーディンガー(英語版)とその共同制作者エドゥアルド・ホフマン (Edouard Hoffman) による設計であり、のちにHelvetica(ヘルベチカ) と名を変える書体、Neue Haas Grotesk(ノイエ・ハース・グロテスク) 誕生の道を示した書体である。Helveticaの目的は “長文に耐え、かつ高い可読性を維持する純正な書体“ であった。国際タイポグラフィー様式の発展に重要な役割を果たした影響力あるデザイナーたちが編集した “ニュー・グラフィック・デザイン” (New Graphic Design) の刊行 (1959年) を足がかりに、この運動は徐々に整理されていった。この刊行物は、国際タイポグラフィー様式における多くの重要な要素?内容の視覚的デモンストレーション?を通じ国外にも販路を拡大、こうしてこの運動はスイスの国境を越えていった。編集者の一人であるヨゼフ・ミュラー=ブロックマン(英語版) (Josef Muller-Brockmann) は、“客観的かつ非個人的な体裁を通して、デザイナーの主観的な感情や伝達技術に左右されずにユーザーに伝えることができる、絶対的で普遍的な視覚表現の形式を模索した。”[5] ミュラー=ブロックマンの多くの作品には、その理念を伝える客観的記号としての大判写真がとりわけ明瞭で力強く用いられている。

第二次世界大戦が終結すると国際貿易は増加、各国間の結びつきはより強いものになっていった。これらの関係の進歩の鍵を握る書体とデザイン?明瞭さ、客観性、地域を問わず使える図案や記号?は、国際的なパートナー間のコミュニケーションにおいて不可欠であった。国際タイポグラフィー様式は、この変化しつつあったコミュニケーション需要にぴったりと合致し、スイスを越えてはるかアメリカへと拡大した。

ルドルフ・デ・ハラック(英語版)は、スイス・デザインと自身のデザインスタイルを融合させた最初のアメリカ人デザイナーの一人である。[6] ハラックの作品における国際タイポグラフィー様式の影響は、1960年代に彼が手掛けたマグロウヒル出版社の多くの本の装丁デザインに見てとれる。それぞれの表紙には、タイトルと著者名がしばしばグリッド上?左揃え、右ラグ組み?に整列し、その本のテーマを明確に表す一つの印象的なグラフィックが表紙のほとんどを覆う。また、このスタイルは1960年代以降のアメリカの会社や組織で、およそ20年に渡って盛んに取り入れられた。このスタイルをとりわけ好んだ機関の一つにマサチューセッツ工科大学がある。[7]
関連した芸術運動

1900年代にはデザインベースの芸術運動が他にも形成されており、国際タイポグラフィー様式に影響を与え、また逆に影響を受けることで発展していった。これらの運動は建築、文学、グラフィックデザイン、絵画、彫刻など複数の芸術分野に跨がる形で広がりを見せた。Composition II in Red, Blue, and Yellow (赤、青および黄のコンポジション)、ピエト・モンドリアン (1930年)、チューリッヒ美術館
デ・ステイル De Stijl
1917年 ? 1930年、オランダでひときわ目立った芸術運動。[8] 新造形主義 (ネオプラスティシズム、neoplasticism) とも呼ばれ、その芸術論において新たな精神的調和と秩序に基づいたユートピアを模索した。白と黒、原色のみを用いた垂直あるいは水平の構図、形態および色彩の要素を削ることで本質に迫ろうとした、純粋抽象美術の手法である。提唱者:ピエト・モンドリアンフィルモス・フサール、Bart van der Hoffら画家、またロバート・ファント・ホッフ(英語版)、ヘリット・リートフェルトJ.J.P.アウトら建築家 他ドイツデッサウにあるバウハウスの校舎。


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