国際オリムピック大会選手予選会
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国際オリムピック大会選手予選会
マラソン号砲の瞬間
主催大日本体育協会[1]
開催地 日本東京府荏原郡羽田町[1]
日程1911年11月18日 - 11月19日[1][2][3]
競技場羽田運動場[2][4]
年齢区分16歳以上[5][6]
実施種目陸上競技[7]
参加国 日本
参加選手91人[8][9][10]
種目数13種目[11]
新記録金栗四三:2時間32分45秒(マラソンWR〔非公認〕)[12]
個人賞金なし(メダルカップあり[13]

国際オリムピック大会選手予選会(こくさいオリムピックたいかいせんしゅよせんかい、旧字体表記:國際オリムピツク大會選手豫選會)は、1911年明治44年)11月18日から11月19日にかけて東京府荏原郡羽田町羽田運動場で開かれた、1912年ストックホルムオリンピック日本代表選手を選抜するための予選会[14][15]。創立したばかりの大日本体育協会が取り組んだ最初の事業であり、男子陸上競技のみ13種目が開催された[16]。この予選会の結果、短距離走三島弥彦マラソン金栗四三日本初オリンピック選手に選抜された[17]
開催の経緯

1909年(明治42年)の春、ピエール・ド・クーベルタンは、駐日フランス大使のオーギュスト・ジェラール(フランス語版)を介して日本にオリンピック参加を打診した[18]。このときジェラールが選んだのが嘉納治五郎で、嘉納はオリンピック参加を快諾、日本初の国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任した[18][19]。嘉納は1911年(明治44年)春に東京帝国大学(東京帝大)書記官の中村恭平早稲田大学(早大)教授の安部磯雄東京高等師範学校(東京高師)の永井道明可児徳を集め、オリンピックの受け皿となる新団体の結成を議論し、同年7月6日に大日本体育協会(体協)の結成を決議した[20]。そして協会の事業第一弾として、翌年のストックホルムオリンピックに派遣する選手を決めるべく、予選会を開くことを決し、「国家の盛衰は国民精神の消長に因り……」で始まる趣意書、選手を募る「競技会応募の檄」、大会要綱を日本全国に配布した[14]。競技会応募の檄では、この予選会を「我が国未曾有の一大運動会」と呼んでいる[21]。一般市民が予選会の開催を知ったのは、10月中頃の新聞報道によるもので、実施種目は10月末に発表された[22]

開催する競技は、オリンピック競技に入っていて、なおかつ日本のスポーツ界の主流となりうるものとして検討したところ、陸上競技しかないという結論になり、陸上競技一本に絞られた[7]。そもそも嘉納がオリンピック参加を受諾したのは、自身が日本国民全体に普及させたいと思っていた陸上競技と水泳がオリンピック競技に入っていたことも大きく影響している[23]。大会の開催日程は1911年(明治44年)11月18日(土曜日)と11月19日(日曜日)とし、会場は羽田運動場と決まった[21]。体協はこの予選会のために競技場を整備しようと考えたが、発足したばかりで資金も土地もなかったため[24]、専務理事の大森兵蔵京浜電気鉄道(京浜電鉄)と交渉して[1][9][25]、毎年競技会を開くという約束で[1][9][24][26]自転車競技場だった場所に新しい陸上競技場を建設してもらった[24]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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