国鉄D51形蒸気機関車498号機
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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}国鉄D51形蒸気機関車 > 国鉄D51形蒸気機関車498号機 1995年末からは、ナンバープレートは現役時代当時の形式なしのものに戻されており、スノープラウも1998年以降常備化。(2008年9月29日) 2015年下半期以降は、夜間営業に対応できるように副灯のLP405形を追設。現在の当機はこの姿となっている。(2016年1月9日)

D51 498は、東日本旅客鉄道(JR東日本)が動態保存する蒸気機関車 (SL) で、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が製造したD51形蒸気機関車の1両である。
経歴
現役時代から保存まで

D51 498は、1940年11月24日に鉄道省鷹取工場にて落成し[注 1]、鷹取から近い岡山機関区に新製配置された。のちに吹田1951年8月 - )→1953年12月 - )→長岡第一1963年10月 - )→直江津1965年4月 - 、配置替えではなく貸し渡し)→新津1966年3月 - )→坂町1972年3月 - )と各機関区を転々としていた。先輪は刻印から1955年10月に郡山工場でC58 103の物に交換されたことが分かっている[1]。当のC58 103は1972年に廃車後、岩手県一関市の一関文化センターで保存されている。

なお、新津時代には、同じJR東日本で復元されたC57 180と同時に所属していた時期(本機が新津に配転された1966年からC57 180が廃車された1969年まで)があった。また、のちの1972年に梅小路蒸気機関車館に動態保存され、現在山口線で保存運転を行っているC57 1とも同時に所属していた。このため、1966年から1969年の3年間は奇しくも3台の復活蒸機が同じ所属で活躍していたこととなる[注 2]。さらにその前の平機関区所属時には、梅小路蒸気機関車館にて動態保存されている86301952年12月 - 1970年3月)と、銀河鉄道999のモデルともなったC62 481950年8月 - 1967年9月)の2台と同籍しており、当機は多くの名声ある機関車との関わりを持っている。

1972年10月に鉄道100周年記念で八高線にて運転されたイベント列車の牽引を最後に運用から外れた。なお、配置は坂町機関区のままで、高崎第一機関区には貸し渡しとされている。

その後、同年12月1日に車籍抹消となったが、同日に群馬県利根郡月夜野町(現・みなかみ町)に貸与されることが決定し、4日後の12月5日上越線後閑駅前(構内脇)にて静態保存された。 動態復活初日
EF58 61を従えてオリエント急行を牽引
保存機からの復元以後

国鉄分割民営化後の1987年10月、JR東日本では「地域密着」をテーマに「蒸気機関車を復活して走らせよう」との動きが持ち上がった。折から横浜市の「みなとみらい21」地区で、1989年に開催される「横浜博覧会」の事務局から、品川 - 博覧会会場間をSL列車で運転したいと正式に申し入れがあり、これに間に合わせるためSLの復元計画がJR東日本内で正式に決まった。これにより、関東地方に保存されているさまざまな静態保存機をリストアップし、調査の結果、交通博物館に保存されていたC57 135が一番良く整備され保存状態の良い機関車であることが判明した。JR東日本はこのC57 135の復元を行おうとしたが、SLの代名詞的存在であり、最もポピュラーな「デゴイチ」を走らせることが、地域密着を図るうえで最も効果的であるという当時の社長住田正二の判断によって、C57 135の復元は見送られ、D51形を復元するという方針が決定した。改めて調査を行った結果、茨城県のD51 70とこのD51 498が同形式で最も状態の良かった機関車となった。そしてこの選択では、標準型である当機のスタイルが一番馴染み深く愛されるという理由で498号機が選ばれ、当機の動態復元が決定された。

1988年3月に後閑駅の静態保存場所から復線し、DD51形に牽引され高崎運転所へ、その後6月12日に同じくDD51形による牽引で大宮工場へと回送され、動態復元に向けた大掛かりな復元工事を11月25日までに完了した。その後、動態保存機として車籍が復活され、同日付で正式に高崎運転所に配属となっている。復元に際し、できるだけ原型に近付けるために前照灯(ヘッドライト)の変更(LP403→LP42)、デフレクターバイパス弁点検口の閉口、キャブ屋根延長部の切除、蒸気ドーム前方手摺りの小型化、テンダー重油タンクの小型化などの工事も行われている。また、ボイラー保護のため使用圧力を所定の15kg/cm2から14kg/cm2に下げて使用されている[注 3]。運転速度も、メインロッドへの負荷を軽減するため、高崎地区での運用時は50km/hまでを最高運転速度としている。

当初予定されていた「横浜博覧会」での運転は、諸事情により中止となったが、その代わりに当時来日していた「オリエント急行'88」の国内ラストランに合わせ、上野 - 大宮間で当該列車を牽引し、復活記念の運転を行うことが決定された。1988年12月23日EF58 61補機として後ろに従え、前部本務機として先頭に立ち復活をアピールした。この運用に限り、テンダー側面には来日した「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行」(NIOE) に使用されているワゴン・リ客車の側面エンブレムを模した特別塗装が施されていた。この際、後ろのEF58 61は赤羽駅での遅延回復による後押しを行った程度で、それ以外の区間はすべて当機の単独牽引によるものと語られている[3]

その後は車籍の再登録が行われ、「JR東日本の顔」として、主に上越線の「SL奥利根号」(後・「SLみなかみ」、現・「SLぐんま みなかみ」)を中心に、様々なイベント臨時列車に起用され、東日本全域で運転されている。特に注目されるものとしては、現役時代の縁の地である新潟地区にもC57 180の代行運転などとしても使用されることがあるなどが挙げられる。また、イベント列車以外でも高崎運転所(現・ぐんま車両センター)構内のほか、「SLぐんま みなかみ」使用区間の上越線高崎 - 水上間や「SL碓氷」(現・「SLぐんま よこかわ」)の信越本線高崎 - 横川間でSL運転士育成のための乗務員訓練運転に使用される機会も多い。

1989年6月には、同年8月31日にATS-P形が全線に導入されていた京葉線蘇我 - 新木場間で、同機を使用した「SLコニカ号」[4] の運転のために保安装置(ATS-P形)の設置工事が大宮工場で行われ、テンダー後部に同装置の電源が追設され、本務機関士席の加減弁の上にATS-P形表示器が設置された。また、ATS-P形の専用車上子は先台車上部に設置された。なお、ATS-P形の車上子は1998年ごろに同装置の改良工事が行われ、カモフラージュ及び車上子保護を兼ねてスノープラウ(排雪器)の常備化を行っている。さらに、2000年代に入ってから仙台地区と新潟地区に普及している保安装置に対応するため、2006年12月にこれまで使用していたATS-SN形からATS-Ps形に改造・変更された。2010年春の中間検査B施工時では、防護無線装置の更新が図られ、首都圏地域で普及しているデジタル無線への置き換えが行われている。2013年4月の全般検査出場では、テンダーに変化が見られ、テンダー内部のタンク水容量の残存状況をデータ化するための装置が重油タンクとATS-P形電源箱の間に追設、ATS-P電源箱自体もそれに合わせて更新された。同時に冬季の旧型客車の牽引に備えて蒸気暖房設備の再整備を実施し、暖房ジャンパ管の取り付けが復活した。運転室内部では速度計の更新を実施、C61 20やC57 180同様、ATS-Ps形の速度検知に対応した電気式速度計となった。


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