D51 200は、西日本旅客鉄道(JR西日本)の京都鉄道博物館(旧梅小路蒸気機関車館)にて動態保存されている蒸気機関車 (SL) で、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が製造したD51形蒸気機関車の1両である。 1938年(昭和13年)9月30日、鉄道省浜松工場にて落成(製造番号 25)。 同年10月6日に稲沢機関区に新製配置され、1943年(昭和18年)3月9日には米原機関区へ、1945年(昭和20年)11月27日には大垣機関区、さらに1950年(昭和25年)5月10日には中津川機関区へ転属し、中京地区を中心に使用された。その間、米原機関区在籍中の1945年7月29日深夜、連合軍による浜松に対する艦砲射撃があり、この時に本機も戦災を負った(C57 1と違い、機銃掃射による戦災ではない)。翌30日、その修繕のための臨時入場が記録されている[1]。C57 1同様、数少ない第二次世界大戦の傷跡を乗り越えて現代に生きる貴重な車両の一つである。中津川機関区在籍時代晩年の1968年(昭和43年)には、長野工場にて集煙装置が取り付けられた。 1972年(昭和47年)10月5日に梅小路機関区へ転属し、梅小路蒸気機関車館にて動態保存を開始した[2]。トップナンバー機であるD51 1が保存対象に選ばれていたが、1,115両あるD51形のうち、「半流線形」「なめくじ」の愛称が付く初期型95両のうちの1両であったため、全国各地で走行したD51形では、一般的なスタイルを持つ量産型の中からも1両を選抜して保存することとなり、保存機選定時に残存していたD51形の中で、状態がよく「200」というキリのいい車番であることから、本機が選ばれた。梅小路機関区転属前の特別整備の際、1968年に長野工場で取り付けた集煙装置(長野工場式)を取り外した。この関係で本機の煙突は通常よりも短くなっている。そして梅小路機関区所属、梅小路蒸気機関車館にて有火可能の動態保存機となっていたが、1979年(昭和54年)3月28日に一旦、車籍を抹消(ただし有火保存)された。その後、国鉄分割民営化によりJR西日本に引き継がれた1987年(昭和62年)4月1日(国鉄末期の3月という説もある)に車籍復活し、梅小路蒸気機関車館構内にて、同館に所属する8630、C61 2、C62 2と交替で「SLスチーム号」運転を担当していた。ただし、構内運転用としての使用だったため全般検査は受けず、あくまでも「SLスチーム号」として運用ができる程度の整備に留まり、本線運転を行える法的整備基準は満たしていなかった。「SLスチーム号」としての運用の他、同館はずれの留置線を使用して、機関士のハンドル訓練の使用機として入換扱いで運転されることもあった。 2006年(平成18年)10月14日の鉄道の日に、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定された。 長らく「SLスチーム号」用として、梅小路蒸気機関車館の構内運転用に動態保存されていたが、2014年10月17日、JR西日本は、「持続的なSL動態保存の体制の整備」というプレスリリース[3]の中で、本機と同じく梅小路運転区に所属し、本線運転用として動態保存されていたC56 160を置き換えるため、本機の本線運転を復活させることを発表した。
経歴
現役時代と梅小路蒸気機関車館内での動態保存
梅小路蒸気機関車内での動態保存から本線運転復活へ構内運転時代のD51 200