国鉄C62形蒸気機関車3号機
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C62 3は、北海道旅客鉄道(JR北海道)に所属し動態保存されていた蒸気機関車 (SL) で、日本国有鉄道(国鉄)の前身である運輸省が製造したC62形蒸気機関車の1両である。
現役時代から保存まで
改造名目の新製から渡道まで

D52 458の改造機という名義で、1948年昭和23年)6月18日日立製作所笠戸工場(山口県下松市)で落成(製造番号 1931)。同年6月26日付で糸崎機関区に新製配置された[注 1]1950年(昭和25年)8月17日付で梅小路機関区に転属し、北海道入りするまで東海道本線・山陽本線を中心に使用された。

1950年代後半、東海道本線名古屋・米原電化などにより所要両数に余裕が生じ、種車(D52形)に使用されていた粗製乱造によるボイラー不調機を順次保留車にしつつあったC62形を、装備改良および軽軸重形に改造の上で北海道へ転用投入し、旅客輸送効率を増強する計画が持ち上がった。まず先行配置および運用試験の意味合いも込めて、1956年(昭和31年)9月15日に鷹取工場で定期検査および北海道向け改造工事(工事の内容は後述)が終了した本機が、梅小路機関区から苗穂工場へ発送された。同月20日に同工場に入場し、酷寒地対策(耐寒・耐雪改造工事[注 2])改造を実施後、同26日付で小樽築港機関区に配属された[1]函館本線をC62形重連に牽引され走行する急行「ニセコ」。前補機がC62 2、後ろの本務機がC62 3
渡道から保存までの経緯

配置後は機関士の習熟運転を行い、1956年10月11日に函館本線の営業列車上り「まりも」を、翌12日に下り「大雪」を使用し(小樽 - 函館間往復)、試運転が実施された。破格の大形機故に危惧されていた軌道負担増大の問題について、運用担当部署と保線担当部署で話し合いの上で、車両は検修担当で適宜改修を行うこと、軌道は急カーブにおける通過速度をC62形に限り下げるなどを実施するなど、保線側で充分対応可能な範囲に収まるなどその結果は良好であった。

ただし、大型機の軽軸重化改造機・線路規格の低い線区においての運用ということもあって、検修担当者も従来機では発生したことのない故障やトラブルに遭遇、対処に追われるなど、試行錯誤の上で北海道における安定運用にこぎつけることができた[注 3][2]

これを受けて、保留車となっていたC62形は、1957年(昭和32年)2月より、順次D52形から流用された戦時設計による状態不良ボイラーの新製交換と、軸重軽減改造、耐寒・耐雪工事(本機の場合は、1956年8月31日から9月8日まで鷹取工場で甲修繕[注 4][1]を実施後、苗穂工場まで回送、臨時入場し耐寒・耐雪改造工事)を施工後、随時小樽築港機関区へ転属されることとなった[1]。そして、急行「まりも」「ていね」「大雪」などで、函館本線小樽 - 長万部間を同形式での重連運用として『ジェット音』とも称されるような轟音を、ニセコ山系に轟かせて限界を求める運用に従事することとなる(なお本務機は小樽から函館までの往復運用を2日、補機運用は小樽 - 長万部間を1日で往復する運用であった)。

SLファンはこのシーンを様々な場所から撮影しており、貴重なシーンとなっている。

1972年(昭和47年)秋に、C62 2は動態保存先の梅小路蒸気機関車館(現・京都鉄道博物館)へ異動が決まったため、苗穂工場にて徹底した整備・全般検査を受けて転属したのちは、本機がC62 2とのコンビで「ゴールデンコンビ」として人気が高かったためと、「鉄道友の会北海道支部」による延命運動が同年夏ごろに始まり、臨時列車・不定期列車牽引に用いられるようになった[3]。しかし、小樽築港機関区所属の他の同形機は廃車解体(一部は部品のみ展示されるなどしている)処分となった。その後、一時休車状態にあった本機[注 5][4]がファンサービスも兼ねて1973年(昭和48年)の2月から9月まで函館本線小樽 - 長万部間の普通列車を牽引したことがある。しかし同区間の完全無煙化により、本機も同年10月で第一次休車となり、1974年(昭和49年)7月から第二次休車となり、1976年(昭和51年)3月19日、日本国有鉄道工事局通達第1224号(保存目的)で車籍抹消除籍)となった。その後は小樽築港機関区にて、保存目的の徹底整備が行われたのち[注 6][5]1977年(昭和52年)4月21日に保存される小樽市の北海道鉄道記念館(その後、小樽交通記念館を経て現在は小樽市総合博物館)にSL2両 (C55 50, C12 6) とともに搬入され、静態保存されることになった[6]
動態復元から「C62ニセコ号」運行終了まで
動態復元に至る概要に関して

国鉄分割民営化直前の1986年(昭和61年)10月4日[7]、北海道鉄道記念館(当時の呼称、現在は小樽市総合博物館)に静態保存されていた本機は[注 7][8]、旧手宮線経由で小樽築港機関区(現・小樽運転所)に搬入され[9]、有火状態への仮復旧が行われた。
動態復元に至る経緯について

その前年となる1985年(昭和60年)5月15日に、復活運転の是非を検討すべく小樽築港機関区の検修陣・SL検修担当OBらにより、本機に関して現地にて詳細な調査が行われ[10]、海のそばに位置する場所での長期にわたる保存期間だったことから腐食箇所等[注 8]は複数あったものの修復は可能であり、機関車牽引による小樽築港機関区までの走行は可能と判断された[10]。しかしその後、管轄である札幌鉄道管理局上層部内で理由は不明だが、計画に予算が付くことがなく移送作業はしばらくの間中断していた。

事態が急変したのは、前述した手宮線を国鉄清算事業団(当時はまだ国鉄札幌鉄道管理局)からの買収・観光施設整備計画を小樽市が計画し動き始めたとの新聞報道を受け、レールが記念館までつながっている間に小樽築港機関区に収容するために[注 9][注 10][注 11][注 12]、急遽国鉄札幌鉄道管理局からの予算が下り、1986年(昭和61年)10月4日の日中にディーゼル機関車DD16 15牽引による超徐行運転で南小樽駅構内に到着後、同日深夜の終列車の通過を待ち、南小樽 - 小樽築港駅構内にある小樽築港機関区間の線路閉鎖措置を行った上[注 13][注 14]、超徐行運転にて1986年(昭和61年)10月5日未明に小樽築港機関区に収容された[11]


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