国鉄C57形蒸気機関車1号機
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C57 1は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が動態保存する蒸気機関車 (SL) で、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が製造したC57形蒸気機関車の1両である。
現役時代

1937年昭和12年)3月22日川崎車輛で落成(製造番号 1769)。後から発注された車両が先に完成したが、発注順に従いそれぞれC57 1とC57 2とされた。同年4月4日水戸機関区に新製配置され、1939年(昭和14年)11月10日に宇都宮機関区(現・宇都宮運転所)に転属した。1945年(昭和20年)に宇都宮機関区で空襲に遭遇し、機銃掃射を受け損傷している[1]

以後、戦後にかけて東北本線で使用され、1949年(昭和24年)10月11日千葉機関区に転属し、総武本線等で普通列車の牽引に使用されたのち、1954年(昭和29年)10月7日新津機関区に転属し、羽越本線等で使用された。新津への転属時には、雪除けのためにキャブの屋根が延長され、ランボードにも、新津機関区の伝統でもある白線が入れられた。1958年(昭和33年)にボイラー載せ替えを実施した。

1961年(昭和36年)2月9日に、羽越本線村上 - 間島間にて急行日本海」を牽引中、土砂崩壊現場に突入してしまったことで脱線転覆大破した。破損した車体は2か月以上にわたり事故現場に放置されていたが、4月27日に運び出され、長野工場(現・長野総合車両センター)で5か月にも及ぶ修復を受け、9月末に完了、運用への復帰を果たした[注 1]

修復が決定された理由として、トップナンバー機であることの他に、当時は輸送力が不足気味で機関車が足りなかったこと、ボイラーを載せ替えてから3年しか経過していないこと、台枠に損傷を負わなかったことなどがあるが、当時の新津機関区長の決断がその最大の理由である。先輪・先台車C59戦前形廃車発生品が数年間使用され、独特の丸穴ウェッブ付スポーク先輪をつけた姿が写真に残されている(その後C57形の廃車発生品に再交換された)。

事故から復旧後の同機は好・不調の時期が入れ替わっており、当時の乗務員の感想は「乗務割りをもらうと憂鬱になるカマ」や「トップナンバーに恥じない優秀なカマ」など、評価が分かれている。

1972年(昭和47年)3月14日秋田行き821列車が最後の定期列車牽引となった。

1972年(昭和47年)5月の新潟県村上植樹祭開催の際に、羽越本線の新津 - 村上間でのお召し列車牽引機に指定され、その直前に土崎工場(現・秋田総合車両センター)にて全般検査を兼ねて特別整備を受けた。この際には各種ケーシングバンドの材質変更(真鍮)、煙室扉ハンドルの新製、手摺類の交換(ステンレス製)、ナンバープレート位置の下げ、砂箱前方の手摺の小型化、キャブ窓枠や、炭水車縁部への化粧板取付などの改装を実施している。なお、お召し列車は5月20日には新津 → 村上間で、22日には村上 → 新津間で運行された。同列車牽引後は、日出谷 - 新津間で数回特別運転を行った。現在の本機は、運転窓枠の金枠を含めて、このお召し列車牽引時の装飾等を多く残している。

その後、9月25日佐倉機関区に貸与。9月30日10月1日の両日に、千葉鉄道管理局管内で鉄道100年記念特別列車「なつかしのSL列車」号で使用された。

10月3日に梅小路機関区(現・梅小路運転区)に転属し、10月10日梅小路蒸気機関車館(現・京都鉄道博物館)開館を他の保存機とともに迎えている。同館では、梅の花をデザインした煙室扉ハンドルが取り付けられたり、梅小路機関区式お召し装飾をすることが時折あった。

その後、一度も車籍を抹消されることなく、現在に至っている。

なお、新津時代には、のちに東日本旅客鉄道(JR東日本)によって復元されたC57 180D51 498がともに在籍していた一時期(それぞれ1963年から1969年1966年から1972年)があった。D51 498が新津に配転された1966年からC57 180が廃車された1969年までの3年間は、前記2両と本機が同時に新津に所属し、ともに活躍していた[注 2]
SL復活運転のはじまり梅小路蒸気機関車館に動態保存されていた「京阪100年号」「SLやまぐち号」として山口線を28年間走り続けてきたC57 1(徳佐 - 船平山間、2006年8月20日

SLが国鉄線上から消えても、人々のSLへの熱意は冷めることなく、SL現役時代末期のころから、SL復活への運動が起こった。このため国鉄は、梅小路蒸気機関車館で動態保存されていた本機による記念臨時列車「京阪100年号」(客車は12系を使用)を京都 - 大阪間で運行した。この際、沿線は大変な騒ぎとなり、復路の運行中に人身事故が発生する事態になった(詳しくは京阪100年号事故を参照)。この事故のほか、梅小路蒸気機関車館で保存されているSLの定期検査を担当していた長野工場が、1976年(昭和51年)限りでSLの検査を打ち切ったこともあり、国鉄におけるSLの動態保存自体が危ぶまれるようになった。

1978年(昭和53年)1月5日朝日新聞朝刊において、当時の高木文雄国鉄総裁が「蒸気機関車は産業革命の原動力となった人類の科学遺産。動く蒸気機関車を残すことは子供たちへの教育的な価値も大きい。1か所でもいいから営業線で列車を引かせたい。」と語った。のちに高木は大井川鉄道(現・大井川鐵道)を視察している。そして同年12月の国鉄本社役員会で、1979年(昭和54年)からSLの復活運転を行うことが決定された。

京阪100年号事故の反省や、その他様々な検討結果から、運転線区は都心部から遠く、沿線に有名観光地を抱え、かつ新幹線と接続している山口線となり、牽引機には本機が抜擢された[注 3]。運行区間については、転車台を含めたSLの運行に必要な設備が残されていることから、小郡(現・新山口) - 津和野間に決定された。全般検査は、鷹取工場にSLの検査設備を復活させて行うこととなった。これが現在蒸気機関車牽引列車(SL列車)を代表する「SLやまぐち号」である。運行に当たっては労働組合からの要求により、煙突集煙装置と、炭水車重油タンクが搭載された[注 4]。しかし集煙装置は過去にC57が装備したこともあり、外観上もスマートで小ぶりな鷹取工場製の物は図面が見つからなかった(写真から寸法割り出しも上手くいかず)ため、図面が残っていた長野工場(こちらもC57用は見つからず)のうち煙突から運転室までの距離や山口線でのトンネル内でのバランスなどからD51形用集煙装置を改良して搭載した。また、集煙装置は手動式で蓋の開閉を考えていたが広島局の要望で空気捜査式に変更され、シャッター開閉用動力には181系特急電車の廃車発生品であるドアエンジンを流用し、外観に響かないように、集煙装置本体右側面ケーシング内に設置している。


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