国鉄C57形蒸気機関車
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C57形蒸気機関車
山口線を力走するC57 1
基本情報
運用者鉄道省日本国有鉄道西日本旅客鉄道
東日本旅客鉄道
製造所川崎車輛汽車製造
三菱重工業
日立製作所
製造年1937年 - 1947年
製造数201両
引退1975年(定期運用)[1][注 1]
主要諸元
軸配置2C1
軌間1,067 mm
全長20,280 mm
全高3,945 mm
機関車重量67.50 t
総重量115.50 t
動輪径1,750 mm
軸重13.96 t(第3動輪)
シリンダ数単式2気筒
シリンダ
(直径×行程)500 mm×600 mm
弁装置ワルシャート式
ボイラー圧力16.0 kg/cm2 (1.569 MPa; 227.6 psi)
大煙管
(直径×長さ×数)140 mm×5,500 mm×18本
小煙管
(直径×長さ×数)57 mm×5,500 mm×84本
火格子面積2.53 m2
全伝熱面積168.8 m2
過熱伝熱面積41.4 m2
煙管蒸発伝熱面積115.0 m2
火室蒸発伝熱面積11.4 m2
燃料石炭
制動装置自動空気ブレーキ
最高運転速度100 km/h
最大出力1,290 PS
定格出力1,040 PS
シリンダ引張力12,820 kg
粘着引張力10,330 kg
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国鉄C57形蒸気機関車(こくてつC57がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の旅客用テンダー式蒸気機関車(SL)である。2022年現在も山口線SLやまぐち号や、磐越西線SLばんえつ物語の運行に使用されており、マスコミなどでは「貴婦人(きふじん)」の愛称[1]で紹介されることも多い。鉄道ファン等からは「シゴナナ」と呼ばれている。

観光列車やイベントを除いて、日本で最後の旅客営業運転をおこなったSLである(1975年12月14日北海道室蘭本線室蘭駅岩見沢駅行き)[1]
誕生の経緯

1937年昭和12年)、C55形の63号機として製造が始められた機関車であるが、改良箇所が多岐に及んだため、検討の末に新形式とすることが決定され、C57形蒸気機関車として誕生をしている。

1947年(昭和22年)までの間に201両が量産された。本形式への信頼も高く、C51形に始まるライトパシフィック機の決定版となった。
構造

C55形との主な相違点はボイラー使用圧力の上昇(14kg/cm2→16kg/cm2)、それにともなうシリンダ直径の縮小(510mm→500mm)、スポーク動輪からボックス動輪への変更などである。ボイラー使用圧力が上昇したことにより、C55形よりも石炭・水消費量の減少や出力上昇など性能が向上し、これが新形式を与える決め手になったとも言われる。C55形とC57形は共通運用となる場合も多かったが、線形や列車条件によっては混運用ができない場合もあった。基本設計を固めるに際し、設計陣からは軸重を15tとしてボイラーをひと回り大きくする案も出ていたが、使用者側は広域運用ができるほうが望ましいとしたため、ボイラーはC51と同等になった。[2]動輪以外での形態的な変化は、煙室前端部の曲面化、蒸気ドーム キセ後端部の傾斜化、エプロンの傾斜角変更が目立つところである。なお、C57形でもC57 110のように事故や腐食などの修繕や更新で、煙室前端部がC55形のように平面化されたものが数両存在する。

製造時期により、形態が若干異なっている(詳細後述)。戦後に製造されたもののうち、第4次形と呼ばれるタイプは運転室が密閉型となるなど、C59形に準ずるスタイルになっており、戦前から戦中に製造されたものとは、寸法や重量が若干異なる。

戦後に製造された3次形と4次形の中には、技術力、品質管理能力の低下により、ボイラーの性能が悪いものがあり、該当車両は一時期使用圧力を下げて運用されるなどの不便を招いていた。このため、1957年(昭和32年)から1959年(昭和34年)にかけて、本形式のうち57両のボイラーが新造品に載せ替えられている。なお、ボイラー取り替え対象車両の中には、上記以外にX線検査の結果不備が見つかった戦前製のものも含まれている。現在は動態保存中のC57 1も1958年(昭和33年)にボイラーの載せ替えが実施されている。
製造

鉄道省向けには、川崎車輛汽車製造会社三菱重工業日立製作所の4社により、計201両が製造された。その他、台湾総督府鉄道およびその後身である台湾鉄路管理局向けに14両が製造されている。

年別の製造状況は次のとおりである。

1937年(16両):C57 1 - 14, 33, 34

1938年(62両):C57 15 - 32, 35 - 78

1939年(46両):C57 79 - 124

1940年(26両):C57 125 - 150

1941年(2両):C57 151, 152

1942年(17両):C57 153 - 169

1946年(21両):C57 170 - 190

1947年(11両):C57 191 - 201

製造所別の製造状況は次のとおりである。

川崎車輛(60両)

C57 1 - 7(製造番号1769, 1770, 1798 - 1802)

C57 15 - 32(製造番号1869 - 1878, 1882, 1889)

C57 45 - 72(製造番号1898 - 1907, 1919 - 1925, 1961 - 1965, 1968 - 1973)

C57 153 - 159(製造番号2679 - 2685)


汽車製造(5両)

C57 8 - 12(製造番号1500 - 1504)


三菱重工業(106両)

C57 13, 14(製造番号212, 213)

C57 41 - 44(製造番号225 - 228)

C57 73 - 86(製造番号237 - 242, 245 - 249, 251 - 253)

C57 109 - 152(製造番号259 - 286, 307 - 322)

C57 160 - 169(製造番号346 - 355)

C57 170 - 201(製造番号503 - 534)


日立製作所(30両)

C57 33 - 40(製造番号941 - 948)

C57 87 - 108(製造番号1062 - 1083)


製造期による相違1次形のC57 44。岩見沢機関区にて(昭和49年)
1次形 (C57 1 - 138)
1937年(昭和12年)から1940年(昭和15年)の間に製造された基本形である。従台車とテンダー台車がともに一体鋳鋼製とされた。
2次形 (C57 139 - 169)
1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)にかけて製造。第二次世界大戦の開戦により、資材・工程の削減をやむなくされた。組み立て式従台車を使用し、テンダー台車枠が板枠に変更された。基本的には1次形のままで性能に大きな差はない。この形式の別名でもある「貴婦人」とは1次形と2次形を指している。1次形と2次形の間で炭水車を振り替えたケースもある(C57 120, 121, 135, 145, 148など)。
3次形 (C57 170 - 189)
1946年(昭和21年)製造。戦後の旅客用機関車の不足を補うために製造された。設計期間がなかったことから2次形からの大幅な改設計は見送られた。それでも先輪がD52形用の流用であるディスク形となったり、コンプレッサーからの空気放熱管がランボード下に収められるなどの相違点が見られる。また、砂箱キセ前面が1次形や2次形と比べ傾斜している。
4次形 (C57 190 - 201)
1947年(昭和22年)製造。3次形が2次形の基本をそのまま踏襲したのに対し、本グループでは戦後形C59形の設計思想を取り入れた大幅な改良が施されている。キャブ(運転室)が密閉式となり、デフレクター前部上端は45度に切り取られ、炭水車は船底形となり、ボイラーも板厚を増したものになるなど改良され、C59形によく似た外観となった。また、動力逆転機も装備されたが、燃焼室の採用は見送られている。外観の変化が比較的大きかったことについては、均整美が失われた、とするものと、近代的で力強い、とする両論がある。
後年の改造
九州地区ではC55形同様に除煙板小倉工場製の切り取り形除煙板(門デフ)に交換したものが有名であるが、この他にも煙室前部角の腐食対策として丸形から角形への改装、重油併撚化したもの、などがある。特徴的なものとしては11号機の運転台側面への明かり窓増設、77号機の宇佐美式弁装置試用(1954年)などがある。
外地向けのC57形「zh:台鐵CT270型蒸汽機車」も参照

かつて日本が領有していた台湾台湾総督府鉄道においては、1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)の間に川崎車輛と日立製作所で、鉄道省の2次形に準じて6両が製造され、同じくC57形 (C57 1 - 6) として使用された。


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