国鉄80系電車
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国鉄80系電車
クハ86329他4両編成
基本情報
運用者日本国有鉄道
製造所日本車輌製造川崎車輌近畿車輛汽車製造日立製作所帝國車輛工業東急車輛製造新潟鐵工所宇都宮車両国鉄大井工場
製造年1950年 - 1958年
製造数652両
運用開始1950年3月1日
運用終了1983年
廃車1985年
主要諸元
軌間1,067mm
電気方式直流1,500V
直流600V(駿豆鉄道乗り入れ対策)
最高運転速度100km/h
設計最高速度110km/h
起動加速度1.25km/h/s (MT比2:3)
台車DT16・DT17・DT20A(モハ80)
DT16(クモユニ81)
TR43・TR45・TR48(クハ86・サハ87)
TR43A・TR45A・TR48A(サロ85)
主電動機MT40形直流直巻電動機
駆動方式吊り掛け駆動方式
歯車比2.56
出力568kW(電動車1両あたり)
定格速度全界磁 56.0km/h
60%界磁 70.0km/h
制御方式抵抗制御・直並列組合せ・弱め界磁
制御装置CS10 電動カム軸式
制動装置中継弁・電磁同期弁付自動空気ブレーキ
保安装置ATS-S(後年に装備)
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国鉄80系電車(こくてつ80けいでんしゃ)は、1950年に登場した日本国有鉄道(国鉄)の長距離列車電車形式群の総称である[注釈 1]
概要

湘南電車」と呼ばれる車両の初代に該当する。太平洋戦争後、東海道本線東京地区普通列車のラッシュ輸送対策として電気機関車が牽引する客車列車の運用置換えを目的に、当初から長大編成での組成を前提として開発・設計された。

これ以前、鉄道省運輸省時代までの国有鉄道は、客車列車を輸送の本流として扱い、電車は大都市圏の短距離輸送に重点を置く補助的な存在と捉えていたが、日本国有鉄道(国鉄)の発足に伴い、100 kmを超える長距離輸送に本格投入した最初の電車であり、走行性能で電気機関車が牽引する客車列車を大きく凌駕し、居住性も大きく改善された[注釈 2]。電車が長距離大量輸送に耐えうることを国鉄において実証し、その基本構想は後年の電車特急東海道新幹線の実現にまで影響を及ぼした。

メカニズム面では基本的に国鉄が大正時代から蓄積してきた伝統的設計の流れを継承するが、内容は大幅な強化・刷新が図られ、1950年代に続いて開発された70系電車72系電車全金属車体車とともに「国鉄における吊り掛け駆動方式旧形電車の集大成」と評すべき存在となった[注釈 3]

1950年(昭和25年)1月から1958年(昭和33年)4月までの8年間にわたり、大小の改良を重ねつつ合計652両が製造され、普通列車準急列車用として本州各地の直流電化区間で広く運用されたが、1983年(昭和58年)までに営業運転を終了し、保存予定で車籍が残っていた1両を除いては1984年(昭和59年)に形式消滅した。
開発の経緯
戦前

東海道における長距離電車運転は、鉄道省時代の大正後期に横浜 - 国府津電化が計画され、完成時には2扉セミクロスシートを装備するデハ43200系電車の新製投入が計画された。しかし計画途上の1923年関東大震災が発生。電化も1925年に完成となったことや被災車の補充が優先されたために本計画は断念された[注釈 4]

一方で電車による長距離運転は、1930年から横須賀線東京 - 横須賀間約68 kmにおいて、従来の客車列車置換えで実施された。この施策は、速度向上やラッシュ対策の実績をあげ、翌1931年からは長距離対応型の2扉クロスシート車32系電車(モハ32・サハ48・サロ45・サロハ46・クハ47形)を新たに投入。2等車(現在:グリーン車)を含んだ編成で居住性を大きく改善した。

しかし電車化の本命とされた東海道の普通列車では、横須賀線より長距離運行系統という事情もあり、太平洋戦争後まで長年にわたり電気機関車牽引列車で運行されることになった。
計画

終戦後の混乱期における輸送事情逼迫は極めて著しく、東海道線東京地区についても横須賀線と同様に加減速性能・高速性能の優れた電車を投入し、高頻度運行で激増する輸送需要に対応しなければならない状況に至った。

東海道本線電化は、1934年丹那トンネル開通時点で東京から沼津までが完成しており、1946年時点の国鉄はこの約126 kmの区間で普通列車電車化を計画した[注釈 5]

しかし当時、連合国軍の占領下で日本の鉄道政策を掌握した連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) 第3鉄道輸送司令部 (MRS) は、アメリカ合衆国インターアーバン(都市間電車)ではすでに衰退が始まっていた事例から、100kmを超える長距離区間の長大編成電車列車による高頻度運行には懐疑的であった。また設備投資抑制が図られていたこともあり、本計画が必要とする新製車両の定数充足を認めようとしなかった。

国鉄は、上述した障害の中で製造許可を得るために、東海道線電車についても「横須賀線程度の短距離運転」という名目でひとまず計画をスタートさせ、後から距離を延長して所期の目的を達成するという策略[注釈 6]を用い、ようやく本計画に係る予算を承認させた。
設計・開発

島秀雄工作局局長(当時)主導の旅客車開発グループの手により、比較的長時間にわたる乗車と高速運転を配慮した構造を念頭に置いた国鉄初の本格的長距離電車として設計・開発が行われた。実績のある既存技術に加え、鉄道技術研究所において研究が進められていた新たな各種技術の導入もふんだんに求められた。

本系列開発以前の日本では、電車は短編成運転が原則で国鉄・私鉄を問わず運用上の小回りが利くように「電動車はすべて運転台付き」とされていたが、長大編成が前提となる本系列は「電動車は中間車のみとし、先頭車は制御機能に徹する」中間電動車方式を採用し、乗り心地やコスト面における改善を実現した。台車はコロ軸受の採用や高速台車振動研究会の研究成果を取り入れた新設計の段階的な導入により乗り心地と高速走行時の振動特性の改善が図られた。さらにブレーキ制御は在来の自動空気ブレーキ電磁弁を加え後部車での応答遅延を最小限に抑えることで、当時の電車としては未曾有の長大編成となる16両編成運転を可能とした。また大出力モーター搭載の長所を活かし、当初は編成内MT比(電動車と付随車の比率)を「2:3」とする経済編成を基本とした。

高速型台車や中継弁・電磁給排弁付自動空気ブレーキなどを除けば、関西私鉄各社の戦前型電車に比較してもスペック自体は優位ではないが、それらの技術開発成果や影響も散見される。

新京阪鉄道阪和電気鉄道参宮急行電鉄阪神急行電鉄などの関西私鉄では1930年代中期までに、6両以上の長大編成や最高速度100 km/h超の高速性能を計画。複雑精緻なU自在弁による長大編成用自動空気ブレーキ(Uブレーキ)[注釈 7]・比較的多段の自動加速制御器[注釈 8]・大出力主電動機[注釈 9]など本系列を凌駕する高度な機器[注釈 10]を大量導入している。

本系列の真の革新性は大局的な背景から捉えるべきものである。技術面では大量増備を考慮してコストを抑制した経済的かつ堅実な選択も見受けられるが、全体では既成概念を覆す大規模な総合システムとして現実に成立させ、なおかつ集中的に運用したことに意義があった。
初期故障

営業開始前試運転車両火災焼失事故[注釈 11]が発生した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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