国鉄52系電車
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飯田線を走行するクモハ52002他4両編成(1978年頃)

52系電車(52けいでんしゃ)は、1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて、鉄道省が京阪神地区固有の急行電車に使用することを目的に製造した複数車種・形式の旧性能電車を便宜的に総称したものである。

基本設計は京阪神地区電化時に設計された42系電車に準じるが、車体形状に当時世界的に流行していた流線形を取り入れるとともに、歯車比をより高速タイプとし、当初は「魚雷形電車」と形容され、後には「流電」の愛称で親しまれた。第二次世界大戦後は最初の転用先となった阪和線特急電車に使用された。1948年 (昭和23年) には高速試験の記録もある。

本項では、モハ52形6両(52001 - 52006)、モハ43形4両(43038 - 43041)、サロハ46形1両(46018)、サロハ66形4両(66016 - 66019)、サハ48形5両(48029 - 48033)の20両およびその改造車について取り扱う。

なお、当系列を広義の42系の一部として扱う考え方もあり、実際にしばしば42系と共通運用された。

Template ■ノート

 戦前形鋼製国電2扉クロスシート車記事一覧形式32系42系52系62系備考
モハ32形001 - 045---17m車
モハ42形-001 - 013--
モハ43形-001 - 037038 - 041-
モハユニ44形-001 - 005--
モハ52形--001 - 006-
モハ62形---001 - 003鋼体化
17m車
サロ45形001 - 013---
サロハ46形001 - 013100 - 103
(014 - 017)*018-*:1936年
に改番
クハ47形001 - 010---
サハ48形001 - 028-029 - 033-
クロ49形001, 002---
クハ58形-001 - 025--
クロハ59形-001 - 021--
サロハ66形--016 - 019-
クハ77形---001 - 003鋼体化
17m車



概要

京阪神緩行線および急電向けに増備が続いていた20m級2扉クロスシート車である42系を基本としつつも、高速運転を実施する急電用に特化し、また4両固定編成を組むことを前提に各部の設計が行われている。汎用性を重視する傾向が強かった戦前の鉄道省制式電車としては極めて異例のコンセプトに基づく車両である。

機器面では主電動機がMT15系の高定格回転数モデルであるMT16(端子電圧675V時定格出力100kW)、主制御器(CS5形電空カム軸式制御器)、それにA動作弁によるA自動空気ブレーキ、と在来車とほぼ同一の仕様となっている。このため、運転上の取り扱いは42系と共通であり、付随車制御付随車の混用が可能であった。ただし、高速運転を目的として歯車比が42系の1:2.26に対し、本系列は1:2.04に設定され、台車についても抵抗軽減を目的として、当時最新のスウェーデンSKF社製ローラーベアリングを軸受に使用するTR25A(電動車用)およびTR23A(付随車用)に変更されているため、運転曲線そのものは42系と異なっている。

車体についてはリベット組立を採用していた従来の42系とは異なり、電気溶接による全溶接構造となり、加えて側窓上下の補強用帯(シル・ヘッダー)を外板裏側に隠したノーシル・ノーヘッダー方式を採用、併せて雨樋を屋根肩部からより上部に移設して幕板と屋根板肩部を一体とした、張り上げ屋根方式を採用したこともあって、非常に平滑なすっきりとした外観となった。また、連結面は完全な切妻[注釈 1]とされ、編成としての美観を考慮したデザインとなっている。

「流電」の象徴ともいうべき流線形の前頭部は、半径1,200mmと半径2,800mmの円を組み合わせた半楕円形の周上に4組の平板ガラス窓を配置し、窓柱を15°内側に倒したもので、前端部の幕板と屋根板の接合部を引き下げた屋根形状や、裾部が丸め込まれた床下のスカートとともに、1933年8月より運行を開始したドイツ帝国鉄道(DRG)の「フリーゲンダー・ハンブルガー(Fliegender Hamburger)」用SVT877形(後のDB VT04形)電気式ディーゼル気動車の影響を強く受けた造形である。そのデザインは窓柱幅が細くガラス窓が目立つ配置となっていたこともあって本家よりも明朗かつ流麗にまとめられており、その登場は他の幾つかの流線形車両とともに、日本の社会に流線形ブームを引き起こすほどのインパクトを与えた。

もっとも、本系列の動力性能(最高速度95km/h)では、流線形採用による空力的なメリットは十分得られなかった。また、床下機器の保守についてサイドスカートの開閉を必要とし、またサイドスカートを上方に跳ね上げて開いた際のロック機構が無く、支え棒で開いた状態を維持するという非常に原始的な構造であったため、誤って支え棒が外れ閉じてきたサイドスカートで指をつめる、頭を打つ、といった事故が頻発し検査の障害となった。さらに、乗務員扉を省略したことから車掌による客用扉開閉の際に、特に混雑時のドアスイッチの取り扱いでさまざまな不便が生じた。その特徴的な外観は大きな社会的反響を呼んだものの、これらの事情から、2回に分けて3編成12両が流線形仕様で製造されたにとどまり、急電運用に必要であった残り2編成8両については、52系と当時の標準設計を折衷した半流線形仕様で製造されることとなった。
第1次車モハ52形第1次車

1936年3月31日付で4両1編成が川崎車輛兵庫工場で製造された。使用開始は同年5月13日である[1][注釈 2][3]

竣工直後の編成は以下の通りで、大阪寄りにモハ52形奇数車、神戸寄りにモハ52形偶数車を連結した。52001 - 48029 - 46018 - 52002

なお、46018の二等室は神戸寄り、つまり52002と隣接する配置である。

窓配置は42系の相当形式に準じ、狭幅[注釈 3]のままである。モハは当初モハ43形の続番として予算が取得され発注されたが、形状・機能共に異なる部分が多いことから新形式のモハ52形とされた。一方、サロハ46形およびサハ48形は、42系サロハ46形および横須賀線用32系サハ48形の追番である。

本編成のモハのみ運転台が半室構造の片隅式となっており、車掌台側は座席が設置されて乗客に開放されていた[注釈 4]。また、屋根肩部には換気用ルーバーがモハ52形は片側6個等間隔に、サロハ46形は二等室側が片側2個、三等室側が片側4個と不均等に、サハ48形は片側7個等間隔に、それぞれ設置されており、屋根上の通風器はガーランド形を1列に配置している。

当初は従来通りの葡萄色を主体として、扉と窓枠、スカートを明度の高いベージュ[注釈 5]に塗り分け、さらに屋根を灰色に塗装した、比較的地味な塗装であった。これは後に2次車に合わせて窓部をベージュに塗り分けた新塗装への変更が実施された。なお、1次車の新塗装化への移行の過程で、新塗装となったモハ52形1次車(先頭車)と2次車の中間車を組み合わせた暫定編成も見られた。

1937年12月、2次車以降の仕様に合わせ、サロハ46形とサハ48形にトイレが設置され、サロハ46018はサロハ66形に改形式、3次車の追番(66020)に改称、編成も2次車および3次車と揃えて以下の通り組み替えが実施され、66020の二等室が編成中央寄りとなった。52001 - 66020 - 48029 - 52002

これに対し、サハ48形は改番されなかった。また。この改造にあわせてサロハには張り上げ位置の雨どいが車体全長に渡るものに変更された[注釈 6]
第2次車モハ52形第2次車

1次車が好評だったことから、1937年3月15日竣工[3]として1936年度予算で2編成8両が増備された。使用開始は第2編成が同年6月25日、第3編成が同年8月22日である。製造は、モハ52形・サロハ66形は川崎車輛兵庫工場、サハ48形は日本車輌製造本店が担当した。

この2次車は、1次車と基本構造や主要機器は同一であるものの、同車の使用実績を反映して側窓配置の大幅な設計変更や一部座席配置の変更が実施された。これらの車両では当時量産中の制式客車が広窓採用の方向へ進みつつあったのを受けて、こちらも側窓が広幅のもの(三等室が1,100mm、戸袋車端部が700mm、二等室のクロスシート部は1,200mm)となり、さらにスマートさが増している。このため、1次形の「旧流」に対して「新流」と呼ばれることもあった。番号と編成は次のとおりで、竣工当初の1次車とはサハとサロハの連結順序が逆転している。52003 - 66016 - 48030 - 5200452005 - 66017 - 48031 - 52006

1次車では屋根肩部にあったルーバーは廃され、屋根上の通風器はガーランド形が1列に配置された。また、三等付随車(サハ48形)には車端部にトイレが設置され、二等三等付随車は当初から車体中央の間仕切り部の三等室側にトイレを設けたため、サロハ66形が付与されており、東京地区横須賀線の同形式車の追番となっている。
第3次車

流電は利用客からは好評だったが、乗務員扉省略やスカートの装着、それにモハ52の運転台の非貫通構造は運用・整備上不便を来した。このため、1937年10月10日の京都 - 吹田間電化開業に備え同年度予算で製作された第4・第5編成では、1次・2次車で検修サイドから不評を買った床下を覆うスカートを廃止、中間車はそれ以外2次車そのままの設計として、両端の電動車を流線形から通常の貫通路付きに変更した上で3次車として製造されることとなった。もっとも、貫通路付きといってもモハ43形などの平妻構造ではなく、1935年度製作のモハ40形や翌1936年度より新製が開始されたモハ51形などから採用が始まっていた半流線形構造の運転台設計が採り入れられている。このように、電動車についてはモハ52形とは車体構造が大きく異なっていたことから、形式は機能面でほぼ共通のモハ43形とされ、番号もその追番が付与された。ただし、主電動機はMT16、歯車比は1:2.04でローラーベアリング付きの台車を装着するなど、機器・性能面ではモハ52形と共通である。


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