国鉄103系電車
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国鉄103系電車
JR西日本所属の103系電車
(左からオレンジスカイブルーウグイス(低運転台))
(2017年10月28日 吹田総合車両所
基本情報
運用者日本国有鉄道
東日本旅客鉄道
東海旅客鉄道
西日本旅客鉄道
九州旅客鉄道
製造所汽車製造東急車輛製造近畿車輛川崎車輛/川崎重工業日本車輌製造帝國車輛工業日立製作所東芝
種車国鉄72系970番台(3000番台)
国鉄101系(クハ103形2000・2050番台、サハ103形750番台)
製造年1963年(試作車)
1964年 - 1984年(量産車)
製造数3,447両
改造数56両(3000番台、クハ103形2000・2050番台とサハ103形750番台の合計)
主要諸元
軌間1,067 mm
電気方式直流1,500 V
最高運転速度100 km/h[1]
起動加速度2.0[* 1] - 3.3 km/h/s[* 2]
減速度(常用)3.5 km/h/s
減速度(非常)5.0 km/h/s
車両定員48(席)+88(立)=136名[* 3]
54(席)+90(立)=144名[* 4]
全長20,000 mm[1]
全幅2,870 mm[1]
全高3,935 mm
車体普通鋼
台車ウイングばね式コイルばね台車
DT33(電動車)
TR201(付随車)
車輪径910 mm (電動車)
860 mm (付随車)
固定軸距2,300 mm (電動車)
2,100 mm (付随車)
主電動機直流直巻電動機
MT55形
主電動機出力110 kW×4基 / 両
駆動方式中空軸平行カルダン駆動方式
歯車比6.07[1](860 mm車輪で5.73に相当)
制御方式抵抗制御・直並列組合せ・弱め界磁
バーニア制御(地下鉄対応型)
制御装置国鉄制式CS20形
制動装置発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ
(応荷重装置付)
手ブレーキ
保安装置ATS-B/S/Sn/ST/SW/SK/P,ATC(運用路線によって異なる)
^ 4M4T編成
^ 8M2T編成(1000番台)
^ 先頭車
^ 中間車

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国鉄103系電車(こくてつ103けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流通勤形電車である。1963年昭和38年)3月から1984年(昭和59年)1月までの21年間に3,447両が製造された。

本項では、インドネシアの鉄道会社(PT. Kereta Api)に譲渡された車両についても記述する。
概要

国鉄初の新性能通勤電車として1957年に登場した101系を基本に、駅間距離の短い線区の運転やMT比1:1の編成を組成可能な経済性を重視し、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で設計され、3,447両が製造された[2]。新造車3,447両のほか、20両が72系から、36両が101系から編入され、総数は3,503両であるが、後述する105系への改造や老朽化、事故廃車などにより、全車が同時に存在した時期はない。

基本的な構成は、前級に当たる101系を概ね踏襲している。切妻形車体・3枚窓による運転台のシンプルなデザイン・幅1,300 mmの両開き4扉・扉間7人掛け車端部3人掛けのロングシート・コイルばね台車はウイングばね軸箱支持主電動機直巻整流子電動機を用いた抵抗制御MM'ユニット方式である。

本系列の設計は帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄東西線乗入用のアルミニウム合金製車両である301系の基本[3]となったほか、地方電化路線用の105系にも応用[4]された。

JRグループ発足時に、事故廃車2両と105系改造車65両を除いた3,436両が、北海道旅客鉄道(JR北海道)と四国旅客鉄道(JR四国)を除く各旅客鉄道会社に引き継がれた。その後老朽化による新型車両への置き換えによって廃車が進行し、東海旅客鉄道(JR東海)が所有していた該当車両は2001年(平成13年)、東日本旅客鉄道(JR東日本)が所有していた該当車両は2009年(平成21年)に形式消滅となっており、2023年2月1日現在残存するのは西日本旅客鉄道(JR西日本)が関西圏で運用する40両と九州旅客鉄道(JR九州)が筑肥線で運用する15両の合計55両である[5]

分割民営化時(1987年)から2022年までの在籍両数[6]年JR東日本JR東海JR西日本JR九州総計
1987年(昭和62年)2,418両70両894両54両3,436両
1988年(昭和63年)2,418両70両894両54両3,436両
1989年(平成元年)---54両-
1990年(平成02年)2,359両64両893両54両3,370両
1991年(平成03年)2,208両64両888両54両3,214両
1992年(平成04年)-64両850両54両-
1993年(平成05年)2,055両51両821両54両2,981両
1994年(平成06年)1,979両51両817両54両2,901両
1995年(平成07年)1,845両50両809両54両2,758両
1996年(平成08年)1,734両50両804両54両2,642両
1997年(平成09年)1,640両50両795両54両2,539両
1998年(平成10年)1,489両50両777両54両2,370両
1999年(平成11年)1,350両50両777両54両2,231両
2000年(平成12年)1,284両17両775両54両2,130両
2001年(平成13年)1,052両10両775両54両1,887両
2002年(平成14年)939両0両771両54両1,764両
2003年(平成15年)605両-770両54両1,429両
2004年(平成16年)331両-734両54両1,119両
2005年(平成17年)146両-718両54両918両
2006年(平成18年)31両-656両54両741両
2007年(平成19年)4両-587両54両645両
2008年(平成20年)4両-524両54両582両
2009年(平成21年)4両-458両54両506両
2010年(平成22年)0両-430両54両484両
2011年(平成23年)--358両54両412両
2012年(平成24年)--296両54両350両
2013年(平成25年)--288両54両342両
2014年(平成26年)--278両54両332両
2015年(平成27年)--269両48両317両
2016年(平成28年)--268両21両289両
2017年(平成29年)--198両21両219両
2018年(平成30年)--98両18両116両
2019年(令和元年)--48両15両63両
2020年(令和02年)--48両15両63両
2022年(令和04年)--40両15両55両
2023年(令和05年)--40両15両55両

開発の経緯
101系全電動車化計画の頓挫

1957年(昭和32年)に国鉄初の新性能電車として登場したモハ90形(後の101系通勤形電車)は当時の民鉄の高性能車に匹敵する加速度・減速度などを備え、国鉄の通勤輸送力の要として期待された[7]。しかし、試運転を重ねるうちに所定の加速度設定では電流が、き電設備に負荷をかけることがわかり、営業運転開始時から101系は本来の性能を出せず[8]、オール電動車編成を持て余すことになる。初めての新性能電車の運転に対して、国鉄工作局も電気局も変電所容量や架線設備が適合するかのチェックを見落としていた[9]。既に1957年(昭和32年)度にモハ90形が150両分予算計上されており、1958年(昭和33年)春から夏にかけて落成したが、量産車も本来の性能で運転できなかったことから全電動車編成のあり方に疑問がなげかけられる[10]。モーター数を減らした編成で運転した方が車両新製費用が安いことから、1958年度の新製車からは、10両編成中2両をモーターなしの車両にした8M2T編成で増備されることとなった。
101系電車の使用方法の検討

第2次5ヵ年計画での昭和40年度編成両数想定[11]混雑時閑散時備考
編成時隔編成時隔
京浜東北82'00"85'00"-
山手82'00"84'00"-
赤羽85'30"45'30"-
中央急行102'00"85'00"-
中央緩行82'30"85'00"-
南武63'00"46'00"-
横浜810'00"2 - 415'00"-
常磐93'00"66'00"混雑時の時隔は中距離電車等との平均

1959年(昭和34年)に入っても中央本線に101系が増備されていたが、基本8両編成を6M2T、付属2両編成を2Mという編成を組み、日中は基本編成の8両編成で運転されていた。1950年代後半の首都圏の通勤輸送の伸び率は年6 %以上であり、車両を投入して増発や増結をしても輸送量の伸びに追従できない状態にあり、少数の高性能な車両よりも多数の車両が必要となってきた。限られた予算内で多くの車両を作るには、製造単価の高いモーター車の比率を下げる必要があるため、中央線の101系の使用方法にも、付属編成はそのままで基本編成を4M4Tにした6M4T編成が可能かどうか、また他線区の編成両数から4両を1単位とした編成が組める方が都合が良いことから、MT比1:1による運転が可能かどうかの検討が始められる。

これらの観点から、1959年(昭和34年)11月に中央線営業列車にて主電動機温度測定試験が行われた。基本4M4T + 付属2Mという編成を用いたが、付属編成を分離した後の4M4T編成は日中の乗車率が少ない時でもモーター内の温度が上昇しており、101系ではモーター車とモーターなし車を半々で編成を組んだ、いわゆるMT比1:1の編成は、主電動機の熱容量不足のため不可能という結果が出された。同時に、編成はモーター車2両に対してモーターなし車1両 (2M1T) を基本に、場合によっては4M3T・6M4Tまでの編成に制約するという判断がなされた[12]。また、この現車試験だけでなく、主電動機の熱容量を計算によって求めるRMS電流値による運転評価が1959年(昭和34年)秋頃から実用化[13]され、MT比1:1編成のみならず、山手線のように駅間距離が短く発車してすぐに停車するような路線は、モーターを冷やす時間が少ないことから、101系は不利になった。
新形通勤電車の構想

101系が設備面と主電動機の容量不足で今後の通勤線区に対して効果的な増備が行えないことから、国鉄本社運転局では「通勤電車の問題点」を1960年(昭和35年)2月にまとめ、次期通勤電車に対する要望として経済的で大量生産できる車両を挙げた[14]。方向性としては、オール電動車形式による高性能車と回生ブレーキをセットに考える方法と、電動機の出力をアップしてMT比を1:1にして運転する方法が検討されている。回生ブレーキは勾配用抑速ブレーキとして国鉄でも採用実績はあったが停止用回生ブレーキは民鉄を含めても一般的ではなく、京阪電気鉄道が1959年(昭和34年)2月以降1650型の一部において搭載し、営業運転をしながら試験を続けており[15]、その試験結果によって同年9月より回生ブレーキ付き2000型の営業運転を開始した[16]。また、小田急電鉄では主電動機の出力を高めMT比を1:1とした2400形がデビューし、これまでのオール電動車による高性能車から、MT比1:1による高性能車へと変革をとげつつあった。構想にあたって回生ブレーキは京阪の研究結果を待つことにしたが、国鉄でも試作車を1959年(昭和34年)度中に落成している。
架線温度上昇問題

中央線の新性能化に大きく貢献してきた101系だが、1960年(昭和35年)には別の問題が発生した。旧形国電に比べてパンタグラフ当たりの集電電流が大きくなったことによる架線への影響である。中央線の101系化率は同年4月には84 %に達し、101系の通過両数が増えたことから中央線の架線温度を上昇させ、架線の摩耗が激しいだけでなく、夏場などには架線溶断の危険性も浮上した[17][18]。この問題は、架線を平行に並べるツインシンプルカテナリー方式を用いることで改善できることもあり、中央線と中央・総武緩行線の工事を行った。
101系のパワーアップを検討

101系の問題点を克服し、標準形通勤電車を設計するための基礎資料として、1960年(昭和35年)3月末に回生ブレーキを搭載した101系910番台を試作し、同年6月から回生試験を開始した。試験の結果、初期費用が高いこともあり、回生による消費電力量の削減などを照らし合わせて考えても、大量生産しなければならない通勤形電車に搭載することは不適切との結果となった。また、小田急2400形が採用しているのと同じ120 kWのMB3039A形[19]電動機を101系2両に搭載し、1961年(昭和36年)1月に中央線や山手線で試験を行った。結果として、回生ブレーキを採用できない状態で主電動機のみをパワーアップすることはできないため、国鉄の1961年度技術課題では回生ブレーキ試作車を大阪環状線に転じて、編成単位での長期試験を行うことも検討された[20]
限界性能の6M4T化

1960年(昭和35年)初頭から選考に入った101系に代わる次期通勤電車は、101系の失敗を繰り返さないためにも、様々な試験を重ねたうえで電気局など多数の関係者も含めて慎重に仕様を決める必要があり、それまでの通勤輸送改善のための車両増備は101系に頼らざるを得ない状況にあった。国鉄の整備計画である第一次5ヵ年計画での車両増備が、予定の390億円に対して321億円と予算不足[21]にあったことから、101系を10両中モーター車8両という構成から10両中モーター車6両にして、製造費の高いモーター車を減らすことで少ない予算で多くの車両を通勤輸送に投入した[22]。これを実現させるには編成を基本8両編成から7両編成に減車しなければならないため、東京鉄道管理局の日中輸送力の検討結果を待って決定された。その結果、昭和35年度本予算では101系のモーターなし車のみ88両が製造され、101系の編成替えを実施し各線の輸送力増強に充てられた他、中央線では11月21日のダイヤ改正にてオール101系化がなされた[23]
標準形通勤電車の設計へ

新形通勤電車の投入候補線区[9]候補線区検討
対象平均駅間
距離 (km)平均速度
(km/h)
中央緩行○1.2739.6
総武○1.7446.0
京浜東北○1.4544.4
阪和○1.2638.6
常磐-2.6452.8
京阪神緩行-3.2956.7

一方、首都圏の通勤事情は悪化し、1961年(昭和36年)1月には中央線朝ラッシュ時に56分30秒という過去最高の遅延を記録するなど、「交通地獄」の様相を呈してくる[24][25]


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