国鉄10系客車
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ナハフ11 1(碓氷峠鉄道文化むらで保存)

国鉄10系客車(こくてつ10けいきゃくしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1955年に開発・試作し、その後量産した軽量構造の客車である。
概要オハネ12の床下部分。台枠は側梁のみで中梁がなく、床強度は縦方向のキーストンプレートと横梁とで担った軽量構造
登場の経緯

1950年代に軽量化設計で世界をリードしていたスイス連邦鉄道(スイス国鉄)の軽量客車(Leichtstahlwagen)の影響を強く受けて設計・開発された[注釈 1]

既成概念を脱却した革新的な設計の導入により、従来の鉄道車両に比べて格段の軽量化[注釈 2]を実現し、輸送力増強や車両性能の向上に著しい効果を上げた。また外装面でも、大型の窓を備えるなどスイス流の軽快かつ明朗なスタイルが導入され、国鉄車両のデザインに新風を吹き込んだ。電車気動車を含むその後の国鉄車両のほとんどは、この10系客車を基本にした軽量構造を採用しており、後続の旅客車設計に大きな影響を与えた形式と言える。その一方で、車体台車こそ近代的になったとはいえ、自動空気ブレーキ車軸駆動式の発電装置並形自動連結器蒸気暖房など、旧来のものを踏襲した部分も多く、車両運用上も1両単位で在来他形式との混結を前提としていた。

一部車両には、遊休化していた車両を改造したものも存在する。食堂車であるオシ17形は、占領軍からの返還や特急の電車化で余剰となった展望車など、3軸ボギー台車を履いた旧型優等客車の台枠流用による改造車として製造された。また、寝台利用者の増加に応えるため、スハ32系二重屋根車など古い二等車三等車の台枠と台車を流用したオハネ17形(のちのスハネ16形)が多数製造され、高度経済成長期の輸送力確保に大きな成果を上げている[注釈 3]
構造・軽量化設計
車体の軽量化

従来の鉄道車両の構造では、土台となる「台枠」に強度の相当部分を負担させたのに対し、10系では台枠中央部全長を貫通していた中梁を省略し、台枠側梁、構体、屋根、側板、妻板、そして波型鋼板(キーストン・プレート)の床を組んだ車体全体で衝撃を分散負担する「セミ・モノコック構造(準張殻構造)」を採用した[注釈 4]

モノコック構造は、元来、重量制限の特に厳しい航空機のために考案されたものであり[注釈 5]、戦後のGHQによる航空産業の禁止命令に伴う技術者の移籍により、その理論および設計ノウハウが鉄道車両開発にも移転され、日本の鉄道車両でも実現可能となったものである。

梁や柱は、重い形鋼の加工品から、薄い鋼板のプレス一体成型品[注釈 6]に置き換えられて軽量化と工数の低減が図られ、また、溶接の最適化やひずみ除去技術の進歩等によって側板厚の削減(2.3 mm → 1.6 mm)が実現[注釈 7]するなど、車体の大幅な軽量化が可能となった。
台車の軽量化

車体構体に次ぐ重量部品である台車についても、第二次世界大戦後盛んになった高速電車用台車の研究開発成果を受けて、重い形鋼や一体鋳鋼に代えて、プレスした鋼板部材溶接して組み立てることで重量の大幅な軽減を実現した、軽量構造の軸ばね式台車(TR50形またはTR200形)が採用された。

だが当時は中長距離輸送の殆どを国鉄が担っていたため、乗客の激しい混雑が当たり前であったこともあり、三等座席車乗車率200 %での使用も考慮され、枕ばねは軽い車重に不釣り合いな硬いものとされた。「すし詰め」の可能性がある以上、混雑度の低い欧州の鉄道車両のような柔らかいばねを採用することができなかったのである。逆にダンパー歩留まりや耐久性ばかりが重視され、減衰力は完全に不足していた。これにより、従来形客車では見られない短周期上下動が常時発生する結果となった。

高速走行性能については、120 km/hでの速度試験にも耐えたものの、量産時には高速性能よりも混雑時での使用(安全率)に主眼を置いたため、試作車よりもばね定数が上げられ、より硬いセッティングとされたことで、問題をさらに悪化させている。
その他の軽量化

その他にも、従来は砲金鋳鋼が当たり前であった内装金具の軽金属部品への置き換えや、アルミサッシの採用、それにプラスチック等の合成樹脂材料の多用などによって、新素材を活用した総合的な軽量化が施されている。この結果、内装から木材をほとんど廃した「全金属車体」となった。
構造

10系客車の形式変遷A:原形式B:緩急車化C:冷房化備考
ナロ10→オロ11
オロネ10オロネフ10?Bは6両
のみ
ナロハネ10→オロハネ10
ナハネ10ナハネフ10オハネフ12一部直接
A → C
ナハネ11→オハネ12
オハネ17→スハネ16
ナハネフ11→オハネフ13

寝台車特別二等車食堂車では、板材をプレスした柱を用いて途中で曲げ、車体幅を2.9 mに広げて裾を2.8 mに絞った車両限界一杯の車体断面を導入して居住性を改善した[1]。この方式も、以後多くの車両に採用された。車体上部の雨どい付近の最大幅は2.95 mである。これ以外の車種では側構の裾絞りはなく、車体幅2.8 m、車体最大幅2.86 mとなっている。また寝台車のうち、旧形車の台枠再利用のオハネ17は車体長19.5 mであるが、新製車は車体長20 m(連結面間20.5 m)を国鉄で初めて採用し、後の特急形電車などに受け継がれた。

スハ43系に引き続き、完全切妻形車体であるが、ウィンドウ・シル/ヘッダーはなくなっている。また寝台車通路側には下降窓を採用した。三等座席車の便洗面所は、出入台より外の車端に設けられ、客室から離すことで臭気を防止した。
改造
冷房・緩急車化改造

本系列は、当初はオロネ10を除き非冷房であったが、寝台車の増加に伴いサービス向上のため独立機関式冷房装置を搭載することになり、自重が増して重量記号が変更されたこと、また寝台車の多くは緩急車に改造されたことで、多くの形式が一括して改造・改形式されている。その一覧は表の通り。細字の形式は改造により形式消滅した。詳細は各形式の項目を参照されたい。
系列別概説

本系列に属する車輛として、以下の形式がある。※等級は製造・改造時のもの(1960年以前は三等級制)※年は製造・改造初年※2000番台の番号は電気暖房付の車両に付される番号
座席車

ナハ10形 -
三等車 1955年 (1 - 8初代 → 901 - 908, 1 - 114)本系列の基本形式。定員88名で122両製造(試作車900番台8両、量産車114両)。試作車と量産車の相違点は、台車[注釈 8]、客用扉[注釈 9]、および妻板[注釈 10]など。当時、客車の製造は日本車輌と日立製作所が指定メーカーであったが、本形式の試作車に限り、技術習得を目的として、汽車製造川崎車輌が製造に参加している。
>製造データ、新旧番号対照

ナハ11形 - 三等車 1957年 (1 - 97, 2098 - 2102)室内灯に蛍光灯を採用したナハ10形の近代形。定員88名、102両製造。本形式以降客用扉が鋼製2枚折戸から開閉窓付きの鋼製1枚開戸に変更された。北陸トンネル列車火災事故後、新形車両の難燃化のため、国鉄大宮工場での定置燃焼実験、宮古線狩勝実験線での走行燃焼実験に使用された。昭和40年には2062, 2075に循環式汚物処理装置が、2072に浄化式汚物処理装置が試験的に設置された。 ⇒[1]
>製造データ、新旧番号対照ナハフ10 28


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