国鉄労働組合
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国鉄労働組合
(国労)
National Railway Workers' Union
(NRU)
組合員による東日本旅客鉄道新宿本社付近での抗議活動(2007年)
設立年月日1946年(昭和21年)
組織形態職種別労働組合
組織代表者高橋伸二(中央執行委員長)
組合員数約9,000人
本部所在地〒105-0004
東京都港区新橋5丁目15番5号
交通ビル4階
法人番号1010405002242
加盟組織全国労働組合連絡協議会
交運労協
国際運輸労連
公式サイト ⇒[2]
シンボル

国鉄労働組合(こくてつろうどうくみあい、略称:国労(こくろう)、英語:National Railway Workers' Union、略称:NRU)は、日本国有鉄道(国鉄)およびJRグループの職員・社員による労働組合の一つである。国鉄分割民営化後も組合名は変更されていない。

組合員数は約9,000人(2016年現在)である[1]全国労働組合連絡協議会(全労協)、全日本交通運輸産業労働組合協議会(交運労協)、国際運輸労連(ITF)に加盟している[2]
沿革
結成、共産党系・左右民同派・革同派の対立

国労は、日本国有鉄道発足以前[注 1]1946年2月に国鉄労働組合総連合会として結成され、当時の省線鉄道員の96%を組織化した。当初は地域・職域毎に結成された労働組合の連合体であったが、翌年6月には単一組織の国鉄労働組合として改組された。だが結成直後から路線対立が激しく、日本社会党両派や日本共産党の政治対立に巻き込まれることとなる。更に時代が下ると社会主義協会中核派革マル派なども組織に入り込み、セクト間の対立が深刻になる。

共産党系の労働活動家が中心となって国鉄総連合も参加した二・一ゼネストが、GHQの命令によって中止に追い込まれると労組内の共産党系活動家による引き回しへの批判が大きくなり、1947年11月の臨時大会では社会党系と共産党系の代議員が激しく対立し執行部は総辞職。共産党に批判的だった星加要・加藤閲男沢田広小柳勇らが国鉄労組反共連盟を結成し、これが更に支持を広げ国鉄民主化同盟(民同)となり一大勢力を築いた。これに対し、共産党とは距離を置きながらも共闘を否定しない土門幸一・高橋儀平・細井宗一らは1948年4月に国鉄労働組合革新同志会(革同)を結成、労働者農民党を支持しつつ共産党系や民同と三者鼎立する格好となった。

同年6月に開催された国労大会では共産党系と革同で執行部を占め主導権を握るとともに国際自由労働組合総連盟からの脱退を決議[3]。翌1949年7月18日に国鉄当局は鈴木市蔵委員長・高橋儀平書記長ら共産・革同系の国労幹部55名を免職。機関士待遇をめぐる運動方針の対立から国鉄機関車労働組合(機労・後に国鉄動力車労働組合=動労)が分裂したが、同年結成された日本労働組合総評議会(総評)では加盟労組単産の中では重きを成した。しかし翌1951年に全面講和・中立堅持・再軍備反対・軍事基地反対の「平和四原則」を総評が採択すると、この扱いを巡って国労内部が対立。民同出身だった横山利秋企画部長が「平和四原則」から再軍備反対を除いた「平和三原則」に則る運動方針案を提出すると、星加副委員長が「平和三原則」を棚上げにして「愛国的労働運動」を目指すべきという対案を提出。中央執行委員会でも両案支持が同数となり、国労大会での採決でようやく横山案を採用することとなった。これを切っ掛けとして民同は星加・加藤・斉藤鉄郎らの民同右派(国鉄労組民主化同盟 = 新生民同)と沢田・小柳・横山らの左派に分裂。革同を交えた三派で運動路線や人事面で抗争することになる。
新潟闘争、民同右派の離脱・マル生運動での労使対立

1957年に、前年から続いた公共企業体等労働組合協議会(公労協)の処分撤回闘争に国労・機労も参加したものの、国労新潟地域本部を中心に抜き打ち的なストが行われ(新潟闘争)乗客や荷主が反発。一時は国労本部と国鉄当局との話し合いで事態を打開する動きがあったものの、地本が独断で駅長を吊し上げたりストを打ったりしたことから事態が泥沼化。このことから新潟地本の中で闘争方針に批判的な非現業職員や民同右派を中心に国労を脱退し、新組合を結成。この動きは全国的に広がり、国鉄職能別労組連合会(国鉄職能労連)を結成するに至る。さらに1959年に社会党の最右派が離脱して民主社会党(のち民社党を経て21世紀現在は民社協会)を結成すると、予てから関係が深かった民同右派も同調。こちらは地域毎に労働組合を組織化し国鉄地方労組総連合会(国鉄地方総連)を結成、1962年には新国鉄労働組合連合(新国労・後に鉄道労働組合=鉄労)として両者は統合し全日本労働組合会議(全労)→全日本労働総同盟(同盟)に参加。第二組合として国労・動労と対峙した。

1960年代後半より国鉄当局が行った生産性向上を目的とする「マル生運動」においては、国労および動労の組合員に対して当局側から組合からの脱退や、鉄労への加入を強く勧奨する事態が起き、1972年まで国労の組合員数は減少を続け、逆に鉄労は同年に11万名もの組合員数に膨れ上がった。国労・動労の両組合は「マル生粉砕」をスローガンに当局との対決姿勢を強める。1971年に公共企業体等労働委員会(公労委)が、マル生運動に関して国鉄当局側に不当労働行為があったと認定し、当時の磯崎叡総裁が国会で陳謝している。
国鉄との対立、スト権スト

マル生運動を切っ掛けとして国労と国鉄当局との対立は決定的なものとなり、1970年代に入るとスト権の回復を名目にストライキを頻発させ、加えて遵法闘争などの闘争も激化させることとなる。既に日本政府は1965年にILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)を批准したが、公共企業体等労働関係法(昭和23年法律第257号、略称「公労法」)によって公共企業体職員に認められていなかったストライキ権の承認に関しては保留扱いとなったため、スト権がその後も焦点であり続け国労も最重点課題とした。だが、この行動は国民生活を巻き添えにしたことで一般国民からの反発を招き、遂には上尾事件首都圏国電暴動のように、乗客による国鉄職員への不満が爆発する形で暴動の発生を招き、社会全体から厳しい批判を受けることとなる。

1974年の春闘で政府と労組側の間で結ばれた「五項目合意」に基づき、1975年秋には政府がスト権問題について結論を出すことが想定されていた。国労が所属する公共企業体等労働組合協議会(公労協)はこれに合わせて、スト権付与を政府に認めさせるべく動き、政府側にもそれを容認する徴候があった。公労協は9月に、スト権問題が山場を迎える時期のスト計画を明らかにする。1975年10月には国会で国鉄の藤井松太郎総裁が条件付きでのスト権付与を表明。これに自民党は反発し、政府もスト権についての結論は出せないとした。これらを受けて、11月26日、国労は動労を含む公労協の他の組合とともに、スト権承認を求める「スト権スト」を起こした。国労書記長の富塚三夫は、ストを進める一方、倉石忠雄らスト権付与に理解を示していた自民党の労働族と接触し、彼らを通じて有利な決着を図ろうとした[4]。しかし自民党内の反発は予想以上に強く、倉石らの意見は党内で封じられることとなる。スト権付与の意向を持っていたとされる三木武夫内閣総理大臣も、党内の状況を受け、12月1日にスト権容認を拒否する政府声明を発表した[注 2]

この結果、12月3日に公労協はストの継続を断念した。スト決行にもかかわらず、政府・自民党はトラック運輸業界に事前に働きかけ、スト決行時の輸送を最低限確保する手を打ち、サラリーマンが会社に缶詰状態になり、自宅に帰れない等の事態はあったものの、国民生活や日本経済に大きな影響はなく、国鉄の影響力の低下を表面化させただけに終わった。

これにより、後述の私鉄総連の離反を招き、都市部を中心とする国民が私鉄にシフトしていった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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